『須賀川の決断』
昼前、黒装束の影が柱の端で止まり、巻紙が俺の手に落ちた。短く、はっきりとした文字だった。
――二階堂盛義、須賀川で兵糧を集め、城内で不穏。諸家へ文。謀反の支度あり。
読み終える前に、胸の奥が固くなる。放っておけば火は広がる。いま火口で踏むか、あとで山ごと焼くか。選べという報せだ。俺は息を一つ整え、呼鈴も使わずに名前を呼んだ。
「定綱、小十郎、基信、伊佐」
四人はすぐに揃った。畳の上に地図を置く。須賀川の印が、今日に限ってやけに近く見える。
「先手を取る。大内定綱、舅上――田村殿と歩を合わせ、須賀川を攻め落とせ」
定綱は目を伏せ、一拍置いてから顔を上げた。いつもの軽口はない。
「時刻は」
「夜明け前。城下が息を継ぐ刻だ。田村からは三春口、こちらは岩瀬口。黒脛巾は内の動きを絶えず伝えろ。見張り台の交代が緩む帯を叩く」
小十郎が帳面を繰り、段取りを並べる。兵の数、梯子の長さ、火の始末。基信は退き路の確認から始め、橋板の用意まで先に記した。伊佐は言葉を省き、右肩の高さで指を二度折る。城内に耳が二つ入っている、という合図だ。
俺は最後に、最も重い言を置いた。
「――城に籠もる者は、残すな」
広間の空気が小さく揺れた。言い直しはしない。俺の声は、思ったより静かだった。
「二階堂は一度うなずいてこちらにつき、すぐまた顔を変えた。いま赦せば、次々に倣う。磐城は細い綱で支えている。ここで綱を切らせるわけにはいかない。戦場の外にいる者は守る。だが城内で刃を取った者には、情けをかけぬ。――見せるためだ」
小十郎が短く「承知」とだけ答えた。定綱は「役、承る」と低く言い、基信は退き路の札を持って立った。伊佐は目だけで「見ています」と言い、影へ消えた。
出陣の使いを走らせたあと、俺はもう一通の文をしたためる。三春へ。舅上――田村清顕殿へ。伊達・田村の連判。そして最後に、愛姫宛ての小さな紙片。「家の火は、私が見ます」と彼女は以前言った。その言葉に甘えるわけではない。ただ、今日の重さを誰か一人には伝えておきたかった。
夕刻、須賀川へ向かう列が門を出る。背を見送り、濡れ縁に座ると、空は薄い灰色のまま動かない。夜は長い。城に届くまでの道の長さが、どうしていつもより遠く感じられるのか、自分でもよく分からない。
深夜、最初の報せ。黒脛巾が城外の渡しを押さえた。見張りの交代が乱れた刻、梯子が二本かかった。静矢で二度、音が消えた。田村の旗が北の塀際に動いた――言葉は少ない。だが、情景は目の裏に浮かぶ。
さらにしばらくして、短い文がもう一つ。「搦手、開く」。定綱の筆致だ。落ち着いている。ここで俺は目を閉じた。眠ったわけではない。時間が身の上を通り過ぎるのを待った。
夜明け前、決着の文が届いた。
――城、落つ。二階堂の家人、抗す。約の通り、籠城の者は残さず討つ。城下の家々には手を出さず。寺社も守る。田村方の働き大。死人の始末、日の出とともに。城は清め、後日、当家の蔵に改めるべし。
読み終えると、紙が思ったより軽かった。重く作れない手紙というものがある。俺は深く息を吸って、吐いた。胸の奥で、何かが動く音がした。勝利の響きではない。もっと硬くて、冷たい音だ。
小十郎がそばに座る。「殿」
「聞こえたか」
「はい。約は果たされました」
「……そうだな」
言葉はそれ以上、出てこなかった。俺の命で、多くの命が消えた。必要のない言葉を足せば、重さをごまかすことになる。ごまかせば、次の命令が軽くなる。それだけはしたくなかった。
やがて、田村からの使いが到着した。膝を進め、深く頭を下げ、清顕殿の言を伝える。「家のため、国のため、よく決められた」と。俺は礼を返し、「恩は忘れぬ」とだけ告げた。愛姫の顔が一瞬、脳裏をよぎる。彼女はきっと、俺の決断を責めはしない。代わりに、城下の湯と粥を増やす。家を温める者がいるから、俺は冷たい命令を出せる。そう思うと、情けないほど救われた。
昼、定綱が直接戻った。埃にまみれた顔のまま、淡々と戦の経過を述べる。田村勢の働き、城門の開き、城内の抵抗、そして命令の遂行――言葉は乾いている。乾いているぶん、刺さる。
「城は静まりました。蔵の記録は残っています。戦に手を出さなかった町人・百姓の名も控えさせました。明日より、税と役を改めます。逃げた者の家は押さえまするが、戻った者には畑を返します。反く者と、迷う者は、別です」
頷いた。迷う者を切ってはならない。反く者は、切る。その境目を毎度確かめるのが、俺の役なのだ。
遠藤が続けた。「須賀川の柵、半分は壊し、半分は残します。残したほうは倉とします。兵は一度引き、五十だけ置いて守りに」
「よい。城の名は変えぬ。ただし、記録の頭に『改』の字を置け。今日からここは、我らの『改めた場所』だ」
夕刻、伊佐が静かに戻った。彼女は報せよりも先に、俺の顔を見た。何も言わない。俺も言わない。代わりに、彼女は小さな紙を一枚置いた。城内で刃を取らなかった者たちの名だ。寺社と町家の代表、十人。明日、彼らを中村へ呼ぶ。新しい約束は、刃ではなく口で結ぶ。そう決めた。
夜。書院に独りになって、筆を取る。短くまとめた戦評と、須賀川の新しい取り決め。年貢の割り振り、田畑の境界、寺社の保護。最後に一行だけ、誰にも見せない文を残した。
――本来なら、小手森に刻まれるはずの黒い出来事は、この道では須賀川に置かれた。俺が置いた。忘れない。
墨が乾く間、手が震えた。震えるのは、弱さだろうか。いや、刃を持たない手が震えている。ならば、それでいい。震えは重さの形だ。重さが消えたら、俺は簡単に次の命を出すだろう。そうなったら、この家はすぐに薄くなる。
灯を落とす前、愛姫が静かに入ってきた。湯気の立つ椀を差し出し、俺の横に座る。
「お疲れさまです」
それだけ言って、黙っていた。俺も何も言わなかった。椀の湯気だけが、ゆっくりと上へ上っていく。戦の匂いを、台所の匂いが少しずつ追い出す。救いは、いつも静かにやってくる。
明朝、田村と伊達の名で城内に布告を出す。守る者は守る、背く者は裁く。城の中に残った刃は、すべて片付いた。ここからは、作る番だ。倉を作り、道を直し、人の腹を温める。今日の決断を正しくするのは、明日の手だ。そう自分に言い聞かせ、俺は目を閉じた。
須賀川の名は、この先、きっと冷たい書付の中で語られる。だが、その書付の裏に、温かい粥の湯気と、子どもの笑いが重なるように――俺はそれを願って、眠りに落ちた。




