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天然痘から始まる伊達政宗転生の天下統一~ 独眼竜と呼ばれても中身はただの美少女好き戦国オタクです~  作者: 常陸之介寛浩★OVL5金賞受賞☆本能寺から始める信長との天下統一
第三章(第3巻分目)『独眼竜、でも中身はただのオタク高校生です』

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『前に出たい心、守るべき境』

 春の空は明るいのに、土はまだ重い。中庭を渡る風に、濡れた土の匂いが混じる。広間で帳面を見ているところへ、襖が勢いよく開いた。藤五郎――伊達実元叔父上の子、伊達藤五郎成実が、礼だけはきちんと取ってから、迷いのない声で言った。


「殿。越後へ出ましょう。新発田を押さえれば、景虎殿の勢いは戻ります。今なら間に合います」


 真っ直ぐな目だった。海での遠征を経て、彼は早く走れる足を手に入れた。走れる者ほど、前が広く見える。だからこそ、止める言葉は慎重に選ばねばならない。


「気持ちはありがたい。だが、今は出ない」


 俺がそう言うと、藤五郎は眉をわずかに上げ、片倉小十郎へ視線を向けた。小十郎は静かに首を振る。


「藤五郎殿。殿の手は、もう前に出ています。旗は見せた。ならば次は、家の足場を固める番です」


「ですが――」


「越後に手を伸ばせば、常陸がこちらを覗きます」


 俺は地図の端を指で押さえ、磐城と常陸の境を軽く叩いた。勿来、富岡、四倉。名前を口に出すと、土の重さが指に戻ってくる気がする。


「父上の本隊は置賜で身動きが取れない。そこへ俺たちまで北へ出れば、南は薄くなる。薄い腹は噛まれる。……それが戦だ」


 藤五郎は口を閉じたが、納得の色は薄い。彼の中で、槍の穂先がまだうずいている。そこへ、柱の影から伊佐が一歩出た。目だけで合図し、小さな巻紙を差し出す。いつもの、短くて速い報せだ。


「常陸の動き?」


 伊佐は頷き、俺の右肩の高さで指を二つ折る。二方向――水戸口と多賀口。俺は巻紙を開き、簡潔な文字を追った。佐竹の兵が南北の道を探り、川筋の渡しを確かめている。近在の庄屋が呼び出され、兵糧の数を数えている。こちらの本隊が動けないと見て、様子見を膨らませてきた。


「……来たな」


 思わず声が低くなった。俺は藤五郎に向き直る。


「藤五郎。新発田は今、誰が守り、誰が攻め、どんな地形か。お前の中の地図は熱で描かれていないか?」


 彼はわずかに言葉に詰まり、それでも真っ直ぐ答えた。


「……景虎殿に縁の深い者が籠もり、周りは水の線が多い。攻め手は油断すれば足を取られる。だからこそ、今のうちにと思いました」


「“だからこそ”の先に、常陸の牙がある。ここで常陸が動けば、磐城はまた泥の中で戦うことになる。前に出たい心は、わかる。だが今は、境を守るほうが勝ちに近い」


 小十郎が言葉を継いだ。


「越後で勝っても、常陸で負ければ家は痩せます。痩せた家は次に走れません。――まずは足場、です」


 藤五郎は歯を食いしばり、やがて深く息を吐いた。その顔に、悔しさと理解が半分ずつ落ちる。


「……承知しました。では、私はどこを守ればよいですか」


 待っていた言葉だ。俺は即座に指示を出す。


「磐城平へ下れ。兵は五百。お前の指揮で連れていけ。城代の鬼庭右衛門と組み、常陸との国境を固める。まずは三つだ」


 畳に、三つの指を並べる。


「ひとつ、道を押さえる。勿来の手前に浅い堀を切れ。深い堀はいらない。車の輪が止まるくらいでいい。敵の足を止めたら、上から矢と弾で押し返す。連弩は十機、持っていけ。狭い道での押し返しに使う」


「ふたつ、合図を決める。旗と太鼓。夜は灯を小さく、音を短く。誰が見ても分かる色、誰が聞いても分かる回数。混乱が一番の敵だ」


「みっつ、退く道を最初に作る。小道を三本。人だけが通れる道と、馬が通れる道を分けろ。退く道がある槍は、前に出ても折れない」


 藤五郎は食い入るように聞き、すぐ復唱した。声に迷いはない。


「勿来の手前に浅い堀。連弩十。合図は旗と太鼓、夜は灯小さく。退く道三本、人と馬は別。……任せてください」


「補給は中村の倉から出す。火縄銃の火薬は湿りやすいから、油紙を二重に。雨除けの布は多めに持て。矢は軽め、数を多く。鍛冶を一人つける。現場で直せる分だけ強い」


 小十郎が帳面を繰り、必要な品をすらすらと並べた。


「米・塩・干し肉を七日分、粉の紙は二枚重ねで百束。連弩の弦は予備を二十。火挟の固い銃は一組でまとめて貸与。……医師と草の見分けができる者を二人」


「それから、村との約束を忘れるな」


 俺は藤五郎の目を一度強く見た。


「人の田を踏む時は、必ず後で直す。橋板を借りたら、帰りに一本多く返す。兵糧を預けてくれた家には、最初に礼をする。『伊達に任せておけば損をしない』と思ってもらうこと。これが、境を長く守るいちばんの薬だ」


「御意」


 そこへ、鬼庭右衛門からの早飛脚が届いた。封は簡素、文字は力強い。平城の修繕は順調、ただし常陸側の道に見慣れぬ足跡が増えた――そう書いてある。藤五郎の顔つきが引き締まる。


「右衛門殿と話は合うはずだ。お前の足と、あの人の槍で、“引きつけてから押し返す”形にしてくれ。追いかけるな、追わせろ。追わせてから、叩け」


「はい」


 短い返事が広間に落ち、すぐに立ち上がる気配に変わった。藤五郎は一礼し、踵を返す。その背に、俺はもう一つだけ声を投げた。


「藤五郎」


「はっ」


「走りたい気持ちは、俺が知っている。だから、お前に任せる。――境の守りは、次の一手を太くするための“前”だ。前に出ないわけじゃない。前に備える」


 藤五郎は一瞬だけ笑い、それから真顔に戻って深く頭を下げた。


「必ず、道を太くして戻ります」


 広間を出たあと、すぐに手配が動き始めた。倉から矢束が運ばれ、火薬は油紙で包まれ、連弩は紐の締め具合を最後まで確かめた。鍛冶は火挟を点検し、布は雨を弾くよう油を引く。女中たちは米を袋に詰め、愛姫は湯と粥の段取りを整えた。台所の湯気はいつもどおりだが、いつも以上に頼もしい。


 出立の刻、門前に五百の列が伸びる。藤五郎は馬上で振り返り、俺と小十郎に一礼した。鬼庭右衛門の使いもすでに前に出ている。道は南へまっすぐ。空は明るく、土は重い。重いほうが足取りは確かだ。


 列が動き出すと、伊佐がいつの間にか隣に立っていた。


「多賀の庄屋、数を誤魔化す癖あり。戻り道で借りを作っておきます」


「頼む。あと――常陸側の川筋、浅瀬の数を確かめておいてくれ。夜の渡しに使えるかどうか」


「了解」


 彼女は短く答え、すぐに姿を消した。小十郎が横で帳面を閉じる。


「殿。越後の噂は広げすぎず、しかし消さずにおきます。『伊達は旗を高く、歩みは浅く』――そのくらいの調子で」


「それでいい。今は勝ち負けの話を増やすな。道の話だけ増やせ」


 門の外で、藤五郎の列が角を曲がった。見送りを終えて広間に戻ると、遠藤が新しい地図を持ってきた。境に並ぶ村の名、渡し、坂、狭い道。見れば見るほど、戦は刀の前に始まっていると分かる。


「殿。退く道の整備、始めてよろしいか」


「ああ。最初に作る。最後まで役に立つ」


 筆の先が紙の上で走る。俺は線を強く書かない。ただ、押さえるべき点に印を打っていく。点と点の間に、明日の動きが見えてくる。


 夜――湯の匂いと鉄の匂いが、城の中で静かに混ざった。走りたい心は、まだ胸の奥で跳ねる。けれど、その跳ねが毎日少しずつ筋肉になっているのを、俺は知っている。前に出る日は必ず来る。その時に足がつるようでは、笑われる。


 今日の一手は守りだ。だが、その守りは次の一手を太くする。そう信じて、俺は灯を落とした。外では、五百の足が南へ向かっている。道の先で、鬼庭右衛門の槍が、藤五郎の足を待っている。二つが合わさる時、境は壁ではなく、弾みになる。そういう守りを、今つくる。

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