『刃を収めて、力を蓄える』
朝の空気は湿って重い。雪は消えかけ、土は靴の裏でゆっくり沈む。城門前に新しい足跡が連なっていた。米沢からの使いだと告げられ、広間に通す前に俺はひと息だけ深呼吸をする。胸の奥で、前へ出ようとする気持ちが、まだ小さく暴れていた。
「米沢より、御前へ」
文は短かった。父上――伊達輝宗の手。要は二つ。黒川の蘆名が「上杉景虎に与する。よって当面、互いに攻め合わぬ」と使者を出してきたこと。そして父上はこれを受けた、ということ。
紙を置いた瞬間、広間の空気がわずかに動いた。鬼庭左月が、あからさまに舌打ちはしないまでも、剃り上げた頭皮の筋がぴくりと揺れた。
「若殿。せっかくの……この好機を、見送るのですか」
低い声。槍の穂先が、まだ鞘の中でうずく音が聞こえる気がした。俺は彼の視線を正面から受けとめ、言葉を選んで返す。
「左月。北条と結んでいる以上、これは当然の手打ちだ。景虎殿は北条の血。伊達が北条と仲を立てるなら、景虎の側へ形だけでも肩を貸す。それをしておいて、蘆名とも無用に刃を交えぬ。――今、この順番を乱せば、味方が一度に敵になる」
「……」
「それに、父上の本隊は置賜を固めている。背を開けたまま走るのは、ただの無茶だ。ここで一つ我慢する。代わりに、次の戦は選んで起こす」
左月は視線を落とし、膝の上で拳を握り締めた。短く吐息を漏らしてから、絞り出すように言う。
「槍は、しまって磨いておけということですな」
「そうだ。油が切れた槍ほど折れやすいものはない。磨いて、支点を確かめておけ。――その間に、俺は城を太らせる」
「城を、太らせる……?」
「国力を上げる。金と人だ。領地を豊かにし、その金で武具と船を増やす。刃を抜く日は来る。その時、軽い家はすぐ息が切れる。重みを作っておく」
左月がゆっくりと頷き、席を下がる。目の奥の火は消えないが、炎は囲いの中へ入った。よし。ここからが俺の番だ。
「小十郎」
片倉小十郎が即座に膝を進める。帳面はもう開いてある。
「松川浦の倉を拡げる。木材は南の山から切り出し、冬の水気を抜いたものだけを使え。商人に呼びかけ、米と塩、干物、布――出入りの品を整理し、倉ごとに決めて積む。人が代わっても迷わないように札を揃えろ」
「承知。倉番は字の読める者を優先して集めます。出入りの印も簡単に」
「さらに小早船を三、安宅船に連なる中型を一隻。棟梁に手付を渡せ。海の道が広がれば、陸の道も勝手に広がる」
「手配します」
「定綱」
大内定綱が袖を直し、悪戯っぽい目の色を少しだけ引っ込めた。
「領内の年貢は今年に限り二分だけ軽くする。その代わり、荒れ田の起こし直しに人を回せ。鍬と鋤を倉から貸し出せ。返しの札は簡単で良い。『借りた』『返した』が見えれば、貸し倒れは出ない」
「人の口は、軽くした歳でよく開く。『伊達は今、息を合わせよと申す』と、各村の寄り合いで囁かせましょう」
「頼む」
「遠藤」
遠藤基信は、いつも通り落ち着いている。
「火縄銃の組は今のまま三十人一組。長いの二十、短いの十。今日からは『撃つ前』と『撃った後』を重点に。粉の紙、折り方を揃え、火挟の固い銃は一組にまとめる。混ぜると現場で迷う」
「了解。運ぶ道と戻る道も一本ずつ増やします。戦わない日の稽古ほど、足が覚えてくれます」
「任せる。――鍛冶はどうだ」
「二人とも手が良い。火蓋の噛み合わせが荒い銃を見分ける目がある。十日見て、十日触らせ、三十日目に任せる段取りで進めます」
「よし」
「伊佐」
呼ぶ前から、柱の影に彼女は立っていた。右肩の高さで指が二度、折れる。合図。米沢口と最上口に目は置いた、の意だ。
「蘆名が『攻め合わぬ』と言いに来た道筋を洗ったか」
「はい。行きは正面、帰りは裏道。裏のほうに人が集まります。そこに耳を置きました。こちらから声はかけません。うなずくだけの人を立てます」
「それでいい。こちらの言葉が多いと、向こうの言葉が減る」
伊佐は小さく頷き、視線で「南も」と問う。俺は短く答えた。
「松川浦の往来は絶やさぬ。北条の目にこちらの息が変わらぬように。旗は日々どこかで揚げろ。高く、派手に。中身は今まで通りでいい」
「承知」
「それと――連弩を増やしたい」
広間の空気が少しだけ動いた。珍しい武具の名だ。俺は続ける。
「静矢は優れている。だが城の守りや狭い道の押し返しでは、手数がものを言う。連弩は『間を作る武器』だ。近づかせない時間を稼げる。山の棟梁に頼んで軽い材で柄を作り、弓の腕は鍛冶に任せる。黒脛巾には携行の型を。鉄砲と一緒に使うと、敵はすぐに歩幅を崩す」
遠藤が頷いた。「前に出たくなる兵ほど、後ろに引っ張る道具が必要になります」
「うむ。足軽の幹には、先に『退く技』を入れておけ。出る技は、体が勝手に覚える」
「小十郎、商人への声がけは俺の名で出してやれ。『伊達は今、買う』と。買うと噂が立てば、商人は遠くから来る」
「では、塩と布、鍋と釘を先に。安宅船の航路、往きは軽く、帰りは重く」
「愛姫」
彼女は座の端で静かに聞いていた。俺の目が届くと、穏やかに笑んで膝を進める。
「女中の手を少し増やしてよろしいですか。兵の食と、村への振る舞いに手がいります。『伊達の城へ来れば腹が暖かい』と覚えてもらえれば、男の言葉より早く広がります」
「お願いする。俺がいくら声を張っても、台所の湯気には敵わない」
「承りました」
場の空気が落ち着き、みなの仕事がそれぞれの体へ吸い込まれていくのがわかる。俺は最後に、鬼庭左月へ向き直った。
「左月。小高の守りは任せる。四倉、富岡、勿来――この三つの口、見張りの交代を増やしてくれ。夜の灯は小さく。人は灯に引かれて動く。引かれたものから倒れる」
「承知。槍は磨いて、穂先は下げて置いておきます」
「ありがとう」
左月は深く頭を下げ、立ち上がった。背で、悔しさと納得が一緒に揺れた。俺はその背を見送り、ゆっくりと息を吐いた。戦わないと決めるのも、戦と同じだけ疲れる。だが、この疲れは実りに変わる。
午後、松川浦へ下りた。潮の匂いと、樹脂の甘い匂い。船大工の掛け声が乾いて響く。俺が顔を出すと、棟梁が手を止めて頭を下げた。
「若殿。小早船三、骨は組み上がりました。中型は図面を起こし中にて」
「頼もしい。船腹の中に馬の棚を作れ。海の道は馬で広がる。帆の布は惜しむな。強い風に、強い布」
「へい」
帰り際、港の子どもが二人、縄を持って綱を真似て引いていた。愛姫の振る舞いが届いたのだろう、頬が赤い。俺に気づいて慌てて頭を下げる。俺は笑って頷き、心の中で誓う。――この子たちが「伊達は腹が鳴らない」と言ってくれるうちに、家の背骨を太くする。
夕刻。米沢からもう一通。父上の文はさらに短く、しかし重い。
「蘆名の約、再び確認。しばし、互いに刃を収める。お前は南を見よ。急ぐな。選べるうちが強い」
俺は文を畳に置き、手のひらで押さえた。選べるうちが強い――父上はいつも最後に骨を置いていく。俺はその骨に肉をつける役だ。
夜、書院で一日の段取りをもう一度見直す。倉の拡張、人の割り振り、工の手配。火縄銃の札付け、連弩の試作、船の骨組み。目の前の紙に書かれた文字が、明日の景色に変わっていく様子を頭の中で何度もなぞる。
明かりを落とす前、襖の影から伊佐が一歩だけ姿を見せた。言葉は一つだけ。
「このやり方なら、戦の前に、勝ちが増えます」
「そうだな」
短く返すと、彼女は満足げに消えた。俺は床に寝転がり、天井の板目を数える。刃は収めた。だが、心まで鈍らせたわけじゃない。磨くものを間違えなければ、いつ抜いても切れる。
――国を太らせる。
そのために、今は攻めない。
攻めないうちに、次の一手を百枚用意しておく。
目を閉じると、潮の音と、鍛冶の軽い槌の音と、台所の湯の音が重なって聞こえた。戦の音ではない。だが、これらが揃った家だけが、戦で息が続く。明日も同じ音を聞けるように、俺は眠りへ落ちていった。