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『旗は高く、歩みは浅く』

 朝、庭の土がやわらかい。夜の寒さがまだ残っているのに、踏めば小さく沈む。春はそうやって城の中へも入り込んでくる。俺は広間で文を待っていた。柱の影が少しずつ伸び、畳の色が変わっていくのを眺めながら、胸の中の呼吸をゆっくりと整える。


 最初に届いたのは、実元叔父上からだった。封を切ると、簡潔な文字が並ぶ。


 ――旗を上げた。三日進み、二日止まり、さらに三日で戻る。陣形は広く見せ、槍の穂先は上げぬ。人払いをした野で昼の膳をわざと大きく炊いた。見せるためだ。戦はせず。父上は「急な熱」で米沢へ戻った――。


 文を置き、息を吐く。うまくいった。北条への顔は立った。こちらの腹には傷がない。形だけの行軍でも、旗は本物だ。遠くからでも見える高さで翻り、こちらが約束を守っていることを告げてくれる。必要なのは、その高さだ。


 「殿」


 片倉小十郎が膝を進める。控えめな声だが、言葉ははっきりしている。


 「実元様の隊、予定どおりの動き。周辺の村にも大げさに野営を見せ、器量の大きさだけを広げて戻る段取りです。佐竹の探りも見えましたが、深追いする気配なし」


 「よし。米沢は父上が引き取る。こちらは南を固める。兵の動きは最小で、目印の旗だけは高く」


 「承知」


 遠藤基信が続けた。「富岡口と四倉口、退くための道を三本ずつ用意しております。踏み跡はわざと残し、敵が『見つけた』と喜ぶ筋も一本。喜べば遅れる。遅れれば、こちらが選べます」


 「頼む。若い兵に、そのやり方を体で覚えさせろ。描いた線の上でしか動けない兵は、いざという時に固まる」


 「心得た」


 重い話が続いたあと、軽い匂いが広間に差し込んだ。煎った麦の香りだ。愛姫が静かに入ってくる。袖の先をそっと揃え、「行軍の知らせ、よろしゅうございました」と目だけで語った。言葉は少ないが、台所も女中もすでに動いている。兵の口は戦の体力だ。彼女が支えると、城全体が息を合わせやすくなる。


 「昼の粥は麦を増やそう。重すぎず、腹持ちよく」


 「はい。兵だけでなく、村の子らにも少し振る舞わせます。『伊達の城は腹が鳴らない』と思ってもらえれば、それだけで道が広がります」


 この人の言葉は、いつも地面に近い。だから強い。俺はうなずき、隣の柱に目をやる。そこにはもう伊佐が立っていた。気配は薄い。けれど、俺が視線を送ると、すぐに右肩の高さで小さく指を折る。三つ。――最上口に耳を三つ置いた、の合図だ。


 「ありがとう」


 「越後寄りの山道にも目を置きます。北条の使いの戻り道と、佐竹の間者の抜け道が交わる場所。そこで匂いだけ拾います」


 彼女の声は短い。短いのに温かい。俺は「任せる」とだけ答えた。公の場では、それで十分だ。


 午後は兵の稽古を見た。火縄銃の組は三十人ひと組。長いもの二十、短いもの十。今日の課題は「撃つ前の準備」と「撃った後の片付け」。若い衆は引き金を引くところばかりを考えるが、勝負はそこ以前とそこ以後にある。湿りを飛ばす場所を決め、粉をこぼさない紙の折り方を揃え、運ぶ人と渡す人の手の高さを合わせる。地味で退屈に見えて、ここが揃うほど強い。


 「殿、長筒の火挟が固いのが混じっております」


 鍛冶の年長が目で知らせる。指先の動きが静かで美しい。俺はうなずき、片倉に視線を送る。


 「仕分けて札をつけろ。固いものは一小隊でまとめて持たせる。混ぜるな。混ぜると現場で迷う」


 「承知」


 稽古の最後、長筒の列の端で藤五郎が動きを止めた。目が「気づき」を拾った時の光になっている。


 「殿。渡す手と受ける手、指の向きが逆だと、粉が風に乗ってこぼれます。受け手が少し上から包むようにすると……」


 実演して見せる。粉はこぼれない。周りの兵が「おお」と声を漏らす。俺は彼の肩を軽く叩いた。


 「よく見ている。海で覚えた『間』を、陸でも使え」


 「はい」


 夕方、見張り番が早足で走ってきた。「相州の使い、帰路につきました」とのことだ。顔つきは明るい。こちらの返事が向こうの望む形だったと知れたのだろう。あとは向こうの城でどれだけ話を盛るかだ。盛ってくれていい。旗は高く見えるほど役に立つ。


 夜。書院で地図を広げる。線は引かない。ただ、指で山の骨を押して確かめる。押せば、重さが指に返ってくる。そこに人を置けば持つ。置けない場所は、名だけを置けばよい。たとえば、勿来。文字で「来るな」と言ってしまう強さがある。名は刃ではないが、刃の代わりになるときがある。


 「殿」


 伊佐が静かに入ってきた。灯のゆらぎに影が溶ける。今日は公の言葉ではない。俺は筆を置き、少しだけ姿勢を崩した。二人きりになると、彼女の視線はまっすぐ俺の目を捉える。


 「越後口、実元様の陣は広くて浅い。噂が先に走っています。『伊達は大軍で来た』と。数を当てる者は少ない」


 「それでいい。『大軍』という言葉さえ届けば、刃を交えずに済むことがある」


 「……殿。あなたが立てた筋は、無理がない。けれど、無理をしたい人がいるのも、私は知っています」


 「左月か」


 「はい。槍はうずきます」


 俺は思わず笑う。すぐ真顔に戻し、短く答えた。


 「槍は油で磨かせておけ。折れない時間が長いほど、抜いた時に頼りになる」


 伊佐はこくりとうなずき、帯の中から小さな紙を出した。折りたたんだ紙には、短い合図の絵。矢印、三つの点、斜めの線。彼女たちの中だけで通じる記号だ。


 「最上の耳は北へ伸びています。こちらからは声をかけません。ただ、うなずくだけの人を置きました。話したい人は話し、聞いてほしい人は勝手に吐き出します。こちらはただ、うなずく」


 「それがいちばん効く時がある」


 紙を受け取りながら、俺は彼女の手を短く握った。たった一息の長さ。離れると同時に、彼女はまた影の中へ溶けた。俺は灯を少し絞り、地図の端に目を落とす。南の海。安宅船。旗をたたまず、毎日どこかへ出す。交易は呼吸だ。止めると身体が冷える。北条の目に見せるのは、ここだ。


 翌朝、二通の文が同時に届いた。ひとつは実元から。予定どおり隊を返すという知らせ。もうひとつは父上から。筆致はいつもと変わらないが、文面は短い。


 ――病は続く。米沢の守り、手を抜かず。そなたは南を見よ。欲を抑えた者が、次に選べる――。


 読み終えて、しばらく掌で紙の温度を感じた。父上の言葉は、骨に響く。欲はある。今すぐにでも前へ出たい心が、胸の中で手を伸ばす。だが、その手を自分でつかんで戻す。戻せるうちは、まだ勝てる。


 昼、鬼庭左月が小高から登ってきた。前より落ち着いた顔だ。俺を見て、短く礼をした。


 「若殿。槍の穂先、しばらく下げておきます。……ならしておけば、いつでも上げられる」


 「すまない。頼む」


 「すまないは無しで。戦はまだ先にあります。わしの槍は逃げません」


 そう言って彼は笑った。笑うと、剃った頭の線が柔らぐ。俺も口元だけで笑い返し、すぐ真面目な声に戻す。


 「四倉の見張り台……いや、見張り場の交代は増やしてくれ。夜の灯は小さく。人の目は灯に引かれる。引かれたものから倒れる」


 「承知」


 日が落ちる。城内は静かだ。鍛冶の槌の音も、料理場の金物の音も、今日は控えめにしてある。音を立てない夜は、翌日の動きを軽くする。寝所へ戻る前に、俺はもう一度だけ文机に向かった。相州へ短い返書を書く。


 ――伊達は約を違えず。旗は高く見せた。深追いはせず。春の土は重い。互いに無駄を避けよう――。


 筆を置いて外に出ると、夜気が頬に触れた。中庭の石の上で、水がひとつ跳ねる。誰も見ていない音だ。俺は空を見て、ゆっくりとまぶたを閉じた。急がない。だが、手は止めない。一つずつ整えていく。やがて、刃を抜く日が来る。その日のために、今日の準備を積む。


 明日の手配を心の中でなぞり終えると、肩の硬さが少しだけぬるんだ。旗は高く。歩みは浅く。けれど、重さは確かに増えている。そういう一日が続けば、道は自然と太くなる。俺はその太さを信じて、灯を消した。

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