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『盟の顔、矛の鞘』

 春を含んだ風が中村の堀を渡り、梅のほつれかけた香が広間の畳に浅く降りた。狼煙台からは薄い白が一度立って消える。合図旗は半寸だけ下げられ、城の呼吸が「待つ」に整えられている。そんな朝に限って、客は来る――燕脂えんじに縁どられた直垂、裾に波頭の刺繍。小田原からの使者であった。


 「相模・北条氏政公の御使僧に候」


 名乗りは慎ましく、声はよく通る。袖口に握った書付を献じ、眉をただ一度だけ上げて目でこちらの座をうかがう。私はうなずき、上段から半歩おりた。ちぎりの客を高みに押しつけるのは、火に風を足すのと同じだ。座を近く、言を遠く――それが今日の型だ。


 「遠路、ご苦労」


 私の言に合わせ、小十郎が一歩進み、茶を置く。小夜が障子の隙を雨の幅に閉じ、伊佐は柱の影を細く引き延ばして、客の背後に目を置いた。遠藤基信は座の後ろで“退き口”の位置を、ただの目配せで若い者に伝える。息が合えば、言は少なくて済む。


 使者は書付を開き、要点のみを置いた。


 「越後・春日山にて上杉の跡目、未だ定まらず。景虎殿、氏康公の御実子にて候。是に於ては、御同盟の御意趣を以て、景虎殿へ伊達家より援軍を賜りたく、との御下知にござる」


 白い言葉だ。血の色は外に落とさない。私は一拍置き、目だけで小十郎と遠藤を走らせる。二人の視線が「聞いている」「すでに見ている」と言う。私は使者に向き直り、口を開いた。


 「北条殿の願い、まことに理にかなう。――我ら伊達は盟を重んずる家。景虎殿に不利な風を見過ごすことは致さぬ。援けの意志、しかと受け、確と返す」


 使者の肩が一分、軽くなる。私の声は柔らかく、しかし曖昧ではない。そのまま続けた。


 「但し、道は泥。春は兵を腐らせるときゆえ、布陣の刻は風を読みて。無用な血を流さぬは、盟を守る手立てにござる」


 「御高論、痛み入る。まずは確たる御返答を氏政公へ持ち帰りたく」


 「持ち帰られよ。――伊達、盟を違えず、と」


 使者は深々と礼を取り、香の筋を乱さぬ足取りで広間を辞した。扉が静かに閉じると、畳の上に置いた小さな石が、音もなく二つ転がる。黒脛巾の合図だ。私はうなずき、内へ顔を戻す。


 「殿」


 小十郎が静かに帳面を開く。「“盟を違えず”の言は、つまり“形を立てる”ということにて」


 「うむ。――刀を抜く約ではない。鞘を見せる約だ」


 胸の奥で白水の鐘が二度、浅く鳴る。はい、と、もう一度。御館の乱――私だけが知っている“先”の名が、舌の裏を冷たく撫でた。景虎は北条の子、北条は必ず越後の風へ身をのばす。ならば伊達は、盟の顔に泥を塗らず、家の腹に刃を立てず、そのを渡らねばならぬ。


 「黒脛巾」


 呼び声に影が滑り出る。顔を上げず、息で答える気配が膝の前に落ちた。


 「越後近くに軍を進めている父上――伊達輝宗へ、急使。『伊達実元を援軍の総大将として、“形ばかり”越後へ進軍あれ。旗は高く、軍は浅く。野営は広く、主力は薄く。狼煙は二度、火は一度。前駆を見せ、戦わず戻れ』」


 影は頷き、「御意」と云って消えた。その消え際、伊佐が私の右肩の高さに半歩寄り、「文は重ねますか」と低く問う。


 「重ねる。父上個人には別紙――『病を得て米沢に帰ると称すべし』」


 伊佐の目に、わずかな笑みの影が走った。それは慰めではない。策が血に変わらぬための、薄い油だ。


 「遠藤」


 「ここに」


 「置賜の柵、栗子の口は払わず塞げ。狼煙は薄く、旗は半分。“見せる守り”に徹せよ。撃つための銃は半分で足りる。撃たぬための銃は倍いる」


 「心得た」


 「小十郎、実元様の行軍次第は“兵の節を刻む”ほうへ寄せろ。三日、前進。二日、野営。三日、警固――の型。土塁を低く、焚火は多く。兵糧の減りを見せて、刃の光は見せるな」


 「承る。松川浦の往還は保ちまするか」


 「保て。鹿島灘に旗を立て続けよ。――北条の目に、伊達の南の息が変わらぬことを見せる。海の旗は、山の刃より先に届く」


 愛姫がいつもより一つ多い湯桶を運ばせ、厨房の音を整える。家の柱は、内を静かに保ってこそ外で音が立つ。小夜は合図旗を半寸だけずらし、銃組に“乾かす日”のしるしを示した。鍛冶の二人は火蓋の噛みを微かに削り、油壺は別座敷へ移される。家の中の細いところに、戦より強い秩序が通う。


 日脚が傾く頃、黒脛巾の報が雪の匂いをまとって戻った。巻皮の端に父上の花押。文は短い。


 ――『実元を先鋒に立て、旗は高く。わしは病を得たり、と称して米沢に帰る。置賜は塞ぐ。矢は番え、弦は緩めよ。輝宗』


 胸に温いものが落ちた。父上の“病”は、家を病ませぬための嘘だ。嘘は時に薬になる。薬を毒にしない分量は、年長の勘にしか分からぬ。私は文を唇で読み直し、畳に載せて小十郎へ渡した。


 「実元様へは私も別紙を。『先触れの陣形、広く見せ、細く退け』」


 「よい」


 新たな合図が梁へ渡る。実元は、若い頃の無鉄砲を骨の奥にしまい、今は風の切れ目を見て走る人だ。彼の名を総大将に掲げることで、北条へは盟の誠を見せ、佐竹へは“ここから先は泥”を示し、蘆名へは「伊達は背を見せぬ」と釘を置く。


 その夜、濡れ縁に出て海松の板へ掌を置く。冷たさの底に、松脂の温が薄く残っている。松川浦の方角で、遠い帆の影が一度だけ白を返した気がした。海は道を広げも狭めもする。今日の白は、盟の顔を洗う白だ。


 背で気配。伊佐が近づき、私の右肩の高さへ息を合わせる。


 「実元様の手の者から、三つ先の野営地に“合図の火”を置くとの由。火は高くせず、数で見せます」


 「良い火だ。――敵に嗅がせる火、味方に温い火。二つは似ておらぬ」


 「はい」


 短く答え、彼女は消える。消える仕事を、彼女は誰より正確にこなす。私が扉を閉めると、小夜が旗を巻き納め、遠藤が“嘘の路”の札を若い者へ配っているのが見えた。家の中の音が、兵の心を半分まで運ぶ。残りの半分は、夜の静けさが運ぶ。


 翌、曇天。米沢よりさらに一通。実元自身の手になる報せだ。


 ――『旗、揚げたり。三日を進み、二日を停め、三日を退く。槍は穂先を下げ、太鼓は腹を打たず。噂は春日山まで先行、と耳にす。病の輝宗どの、米沢の門にて杖をつく。上杉の空、荒るるも、雨には至らず。実元』


 読みながら、私は息をゆっくり吐いた。形は立った。刃は抜かれていない。盟は守られ、家の腹も守られた。北条の使者が小田原へ持ち帰る「よい返事」の中身が、ようやく骨を持つ。


 広間に戻ると、鬼庭左月が黙って座していた。剃り跡は昨日のまま、目の奥には別の光。


 「若殿。――槍は、まだ油でよろしいか」


 「油でよい。だが、油は乾かす日を決めよ。乾いたら、いつでも戦場へ持ち出せる」


 左月は深く頷き、ひと言だけ置いた。「承る」。それだけで、広間の空気は十分だった。


 日が傾く。私は白水の鐘を二度だけ鳴らす。はい――もう一度。その音は梁を伝い、置賜の柵へ、米沢の病床へ(偽りの)、そして春日山の空へ、薄く長く延びていく。鳴らしすぎれば耳が痛む。鳴らさねば錆びる。家はその間を保つために、柱を立て、影を置き、風を読んでいる。


 夜、筆を執り、相州へ短くしたためる。


 ――『伊達、盟を違えず。旗は高く、軍は浅く。景虎殿の不利、見過ごさず。然れど春は泥、無用の血を避ける。道は保ち、家は守る。政宗』


 墨はすぐ乾き、灯はすぐ低くなる。私は最後にもう一度だけ、鐘を胸で鳴らした。矛は鞘にあり、鞘は光っている。盟の顔は洗われ、家の腹は冷えている。――それでよい。春の泥の上で、歩幅を乱さないこと。それだけが、今日の勝ちだった。

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