『矢が疼き、弦を戒む』
小高からの道は、まだ冬の硬さを一筋だけ残している。草履が板戸の前でいっぺん鳴り、案内の声も待たずに広間へ踏み込んだのは鬼庭左月だった。頭の剃り跡は新しいまま、肌に張りの血が残っている。目は乾いて、刃物の背で光っていた。
「若殿、今こそ――常陸へ攻め込む好機、下知を」
畳の上の空気が半歩だけ早くなる。小十郎が一寸、脇差の鯉口に触れてから手を離し、遠藤基信は座の後ろへ退いて“退き口”の位置を確認した。大内定綱は袖の中で鼻を鳴らし、小さく笑って沈む。小夜は風の入る隙を見て障子を半分閉じ、伊佐は柱の影に薄い線を引いた。愛姫は奥で帳を整え、家の内の音を一度だけ合わせた。俺はその真ん中で、左月の目を受けた。
「なぜに好機と申すか」
左月は躊躇なく一歩、座を詰める。声に砂利が混じる。
「蘆名は越後に接し、上杉の変できっと動けませぬ。黒川は会津の出入りで手一杯。これで佐竹へ救援を送る余力、ありますまい。今、我らが南下し、北条と呼吸を合わせ、南北より挟めば――常陸は開きましょう」
剃り上げた頭皮に、光が一筋走る。戦を欲する者の匂いは、空気を薄くする。俺の胸の底で、別の音が鳴った。白水の鐘――はい、と、もう一度。鳴らして、深く息を入れた。俺は膝を一分進め、言葉を置く。
「左月、残念かな」
その一言で、彼の肩の筋肉がぴくりと動いた。俺は続ける。
「上杉の跡目争いで動けなくなるのは、蘆名ばかりではない。北条も同じこと。上杉景虎は北条氏康殿の実子――血で結ばれた縁だ。景虎が越後で旗を上げれば、北条は相州から手を伸ばさずにはいられぬ。南の手が越後へ去れば、常陸へつける手は薄くなる」
左月の目の色が僅かに変わる。刃の背に、研ぎ粉が落ちるような変化だ。俺は指の腹で地図の置賜筋を軽く押した。線は引かない。押すだけだ。
「そして、伊達家本隊――父上の隊は置賜で動けぬ。矢は番えているが、弦は緩めよとの仰せ。背骨を空けて前へ出る愚は、俺たちの家には似合わぬ。磐城の我らだけで常陸へ深入りすれば、佐竹は全軍を北へ向ける。黒川の蘆名が“構える”だけでも、最上の耳は大きくなる」
定綱が袖の中で笑い、低く添える。「会津の酒肆では、すでに“蘆名の中にも上杉名代を憚る者あり”と囁きが走っておりまする。黒川は“構える姿”を見せるでしょう。構えに深みが出れば出るほど、わざわざ噛みに来る者は減る」
左月はそれでも引かぬ。剃り跡の白さが、ひと呼吸ごとに硬くなる。
「ならば、北条は越後、我らは常陸――二面で挟めばよろしい。南北の乱れは敵にこそ乱れ。若殿、あの鹿島灘の船を出し、食を早めれば、大洗あたりから佐竹の背を衝けまする」
海松の板に潮の匂いが蘇る。俺の脳裏に、別の地図が敷かれた。御館の乱――俺の中の“先”が知る名前。景虎と景勝の天下分け目が、春の泥の上で始まる。内側に刃が向く時、外の呼吸はすべて狂う。俺が知る“先”では、北条は越後で深く絡み、関東の指は宙を掻いた。――だが、知るだけで勝てる戦はない。俺は左月に向き直る。
「当事者である景虎は北条の子。援軍は、伊達にも求めてくる。北条と同盟を結んでいる以上、形だけでも兵を越後に向かわせねばならぬ。馬印だけでも上げねば、盟の顔が立たぬ。ここで常陸へ兵を抜けば、磐城の腹は薄くなる。薄い腹は、噛まれる」
「……」
「しかも、父上の置賜は今、塞ぎ固めの真最中。“栗子は払わず塞げ”と命が来ている。背が動けぬなら、腕は振られぬ。ここで腕を振れば、肩が外れる。肩が外れた家は、ただの肉だ」
左月の喉が、ごくりと鳴る。剃刀の線が、わずかに緩んだ。彼は舌打ちの代わりに膝を打ち、低く言う。
「若殿は、いつも“間”を重んじられる。戦は勢いでは動かぬ、と。……わしは、策にて勝つより、刃にて勝ちたかった」
「左月。刃で勝つために、策で先に勝つ」
言いながら、俺は自分の胸の奥の刃を押さえる。疼きはある。今、出たい。今、砕きたい。だが、それは俺一人の体の疼きだ。家は、大きな体だ。疼きを使う場所を間違えれば、二度と歩けない。
「では、何をなさる」
問いは直球だった。俺は三つ、短く答える。
「ひとつ、“見せる”。――勿来、夜ノ森、四倉の柵と狼煙を日ごとに動かし、旗は半分、狼煙は薄く。銃組は“撃たぬ日の稽古”を増やす。“乾かす・詰める・渡す”を昼に、夜は“運ぶ・隠す”。撃つための銃は半分で足りる。撃たぬための銃は倍いる」
「ふたつ、海の息を通す。――安宅船は往来を絶やさぬ。小田原との交易は“北条と南の風、変わらず”のしるしだ。鹿島灘に伊達の旗が立てば、佐竹は背に風を感じる。海の旗は刃より遠くで効く」
「みっつ、“嘘の路”を置く。――遠藤、狼煙の退き口を三つ。昼の路、夜の路、嘘の路。嘘の路にはあえて印を残し、佐竹に“見つけた”と思わせよ。見つけた者は喜びで遅れる。遅れは勝ちだ」
遠藤が静かに頭を下げる。「承ります」
左月は黙って俺の言葉を聞き、最後に息を吐いた。息は重いが、まっすぐだ。
「……若殿は、わしの槍の先を、まだ濡らすな、と」
「濡らす。だが油で濡らす。血はまだだ」
小十郎が脇でひとつ頷く。定綱が袖から手を出し、「会津の市にさらに“黒川は構えに深きを見せるのみ”と薄く流しましょう」と言う。小夜は合図旗を取り、角度を半寸変えた。伊佐は俺の右肩の高さで「最上口に薄い耳を三つ置きます」とだけ言って消える。愛姫は湯の支度に目を移し、台所の音を整えた。柱と影と風が揃う。家は、動かずに動ける。
左月はやがて膝を進め、深く額ずいた。
「若殿。……わしの槍は、どこで構えましょう」
「磐城の門で構えよ。平城の石垣の内側に“静かなる槍”を置け。四倉・富岡・勿来――三つの口で、先に“退き”を作れ。退きがある槍は、前へ出ても折れない」
「承った」
彼の声は刃の背で鳴った。背で鳴る刃は折れにくい。俺は左月の顔を見た。剃り跡は同じだが、その下の筋肉が違う。急く筋から、待つ筋へ。待つ筋肉は、走る筋肉よりも長持ちする。
退出の際、左月が振り返り、短く言った。
「若殿。……いつか、刃で勝つ日を」
「その日のために今日がある」
彼が去ると、広間に温度が戻った。俺は濡れ縁に出て、海松の板に掌を置く。冷たさの底に、温がいる。白水の鐘が胸の奥で小さく鳴り、もう一度鳴った。はい――もう一度。俺は鐘の音に被せるように、独りごちる。
「御館の乱――」
口の中で転がした名は、風にほどけて外へ出た。俺だけが知る“先”は、誰の耳にも入れぬ。入れれば狂う。だが、その“先”の影は、今の地図に薄く写る。それで足りる。影があるほど、人は光を欲しがる。光を欲しがる者は、走らない。歩幅が整う。
「小十郎」
「は」
「磐城の銃組、三十を一組のまま。長二十、短十。編成は崩すな。保管は土蔵西寄り、床を浮かせ、油は別座敷。火は三重の約束。鍛冶二名は十日は見る、次の十日は触る、三十日目に任せる」
「承知」
「定綱、噂は“薄く、早く、遠く”。強くするな。強い噂は刃になる。刃は鞘に入っている間に値打ちがある」
「心得ました」
「遠藤、“嘘の路”は印の置き方を若いのに見せて教えろ。教えずに任せるな。任せてから教えるな」
「御意」
小夜が旗を半寸下げ、伊佐が戻ってきて首を一分だけ傾げる。――“耳、置きました”。俺は目で礼を返し、奥へ向き直る。愛姫が扇を閉じ、柱の影を整えた。彼女は笑わない。笑わずに、場を柔らかくする。柔らかい場は、刃の入らぬ場だ。
夜、白水の鐘を二度、静かに鳴らした。鐘は家の骨を通り、置賜の柵へ、勿来の砦へ、四倉の砂へ、富岡の波へ、薄く伝わる。黒川の火はまだ高くなく、最上の耳はまだ満腹ではない。春の泥はまだ深い。深い泥の上で跳ねる者は、すぐ沈む。泥の上で立つ者は、やがて歩く。
左月の槍の先は、今は油で濡れている。油の匂いは、血より長く残る。いつか刃を洗う日が来る。その日のために、今日の“待つ稽古”を刻む。矢は番え、弦は緩める。その矛盾を抱きしめたまま、俺は灯を落とした。音が消えると、春の形だけが残った。