『矢は番えて、弦は緩める』
朝一番の風は、春と冬の舌を両方持っている。松川浦の方から来る潮の匂いが、城下の土の湿りと混ざり、畳の目にまで薄く沁みた。広間の梁を渡って、黒脛巾の合図がひとつ。小夜が無言で立ち、戸口で影と影をすれ違わせる。戻ってきた彼女の掌には、雪で湿った巻皮が二通、紐は固く結んであった。
父上――伊達輝宗の花押。もう一通は米沢の番所印。封を切ると、墨の香りがまだ生きている。筆致は揺れず、文は短く、余白が深い。
『越後へ手を伸ばすな。置賜を固めよ。最上・蘆名、口惜しけれども耳早し。春は泥の季。矢は番え置き、弦は緩めよ。輝宗』
もう一通は手配の詳細。赤湯に柵を増し、長井に兵糧の積み替え所、川西に馬の宿。栗子は払わず塞ぐ。狼煙は薄く、旗は半分。父上の手は、いつも“退き口”から先に整う。紙の冷たさが指に移ると同時に、胸の奥で白水の鐘が一つ鳴り、すぐにもう一つ鳴った。はい、と、もう一度――この家の合図だ。
「殿」
片倉小十郎が一歩進む。彼の目は、文の余白を読む目だ。
「父上は、置賜の守りに徹する、と」
「うむ。越後へは出ぬ。出れば、最上と蘆名が両の耳で噛みに来る。謙信の死は風を乱す。乱れた風に帆を張るのは愚かのすることだ」
言いながら、唇の裏で別の声が囁く。今こそ、という血の声。だが、その声は“間”を外しがちだ。間を外した者から、海はひっくり返す。陸も同じだ。私は文を小十郎へ渡し、脇に置かれた地図に指の腹だけを置いた。線は引かない。峠の骨の沈みを確かめるだけにする。
遠藤基信が続く。「では、中村は“音”で塞ぎ、置賜は柵で塞ぐ、ということで」
「ああ。銃組は予定どおり半組を米沢へ。残りは此方で撃たぬ日の稽古だ。乾かす日、運ぶ日、隠す日。撃つための銃は半分で足りる。撃たぬための銃は倍いる」
大内定綱が袖の中で鼻を鳴らし、低く笑った。「会津の市に“蘆名に上杉名代を憚る者あり”と落としてございまする。黒川は“構えているふり”を見せましょう。構えには構え返すが、踏みはせぬ――かような趣向にて」
「任せる。最上口にも薄く耳を置け。“伊達は南と交易、北は祈り”とだけ流せ。刃を言葉にせぬこと」
黒脛巾の若い者が、柱の影から合図をひとつ。伊佐がそれを受けて短く頷いた。彼女は今日、言葉を一つも持たない。持たぬほうが、よく届く時がある。
「藤五郎はどこだ」
「見張り台にて狼煙の間を稽古中」と小十郎。「白は三、間は二、次の白は浅し――と、昨日は言い当てました」
「よい。若竹にもう一つ節を刻ませる。……小十郎、銃の保管、土蔵の西寄りで間違いないか」
「塩の吹きを避ける細工、梁の補強、油壺は別座敷、火は三重の約束。鍛冶の二人は十日は見るだけ、次の十日は触らせ、三十日で任せる。口径の揺れは箱ごとに札、混ぜずに回す」
「それでいこう」
筆を執り、父上へ返書をしたためる。『置賜は塞ぎ、栗子は払わず。黒川は見せるのみ。最上口へ耳。鐘は二打。政宗』。墨は落ち着き、言葉は短い。短い文ほど、家の骨に響く。
昼前、庭で女たちの衣擦れの音がした。愛姫が湯の手当や食の配りを指示している。目が合う。彼女は一言も発せず、扇の角度だけを半寸変えた。――“家の中の風は私が見ます”。その合図に、私は小さく頷く。柱が強ければ、門は軽く閉じられる。
「殿」
小夜が低く呼ぶ。「黒川、兵糧の荷車、十。槍の列は“見せ”にございます。兵そのものは動かず」
「見せに見せで返す。狼煙は薄く。旗は半分。柵だけを見せろ。刃は見せるな」
余白のような午後が過ぎ、日脚が伸びる。火蓋の噛みを鍛冶が微かに削る音、稽古場では“乾かす・詰める・渡す”の三拍子がゆっくりと身体に入っていく。私は合図旗の角度を一分ずつ変え、小さな失敗をあえて許す。失敗のない稽古は、戦に弱い。
夕刻、藤五郎が汗のまま広間へ現れた。膝をつき、頭を垂れる。
「殿、狼煙の“嘘の路”を遠藤殿より学びました。印を置き、わざと見つかる印も置く。敵が“見つけた”と喜ぶ分だけ、遅れると」
「よい。嘘の路は、真の退き口を守る盾だ。盾の音は小さくてよい」
藤五郎の目に、海の稽古で覚えた“間”が宿っているのが見えた。吐き、立ち、見る――その順序を陸にも持ち込める若は、そうはいない。兄から殿へ。彼はその距離をもう怖れない。私は短く頷き、席へ戻るよう目で指示した。
夜。白水の鐘の下、火を囲む。鍛冶の指先は静かで、火はよく笑う。笑いの音に紛れて、私は心の底の別の音を聴いた。――いま出れば、という血の音。刃を抜けば、という骨の音。だが、父上の文が胸で重い。矢は番えた。弦は緩めておけ。緩んだ弦は、切れない。張り詰めた弦は、最初に鳴って、最後に折れる。
やがて、伊佐が影から現れ、私の右肩の高さで囁いた。「最上、城下の茶屋にて“伊達は南と交易、北は祈り”と。今夜、酒肆へ。明朝には鍛冶小屋へ届きます」
「良い風だ。噂は武具だ。刃より先に届く武具だ」
彼女の目は“ここにおります”とだけ言い、すぐに消えた。消えるという仕事を、彼女は誰より正確にこなす。愛姫は柱であり、伊佐は影であり、小夜は風である。三つが揃えば、城は動く。動かずに、動ける。
深更、筆を置いて濡れ縁に出る。海松の板が冷たく、しかし芯に温みを持っている。目を細めると、松川浦の方で白が一度だけ跳ねた気がした。安宅船の帆かもしれない。海で覚えたことを、陸で忘れないための白だ。
「殿」
小十郎の声が背中に届く。
「置賜の柵に名を。勿来に倣い、“来るな”の意を二度書きましょう。“勿来二”と」
「そうだ。名は刃より長く残る」
私は目を閉じ、父上の文をもう一度胸で読み上げた。越後に進めば、最上と蘆名が噛む。噛ませぬために見せ、噛みにくくするために塞ぐ。春の泥は、速さの味方ではない。待つ者の味方だ。待つことは、退くことではない。待つことは、勝ちを呼ぶための“前”だ。
翌け、近習が走ってきた。黒川の方角に薄い火が一度。兵は動かず、兵糧の量も増えず。見せるだけの構え。私は頷き、合図旗を半寸下げさせた。広間に戻り、父上への次の返書を早口で口述する。
「置賜、塞ぎ固し。黒川、構えのみ。最上口、耳通ず。――矢は番え、弦は緩む。鐘は二打」
書記が筆を走らせる音が、妙に澄んで聞こえた。音の澄む日は、刃を抜かない。抜かずに、勝ち筋を太くする。銃は土蔵に息を潜め、鍛冶の火は細く長く、狼煙台の影は薄く長く。愛姫は台所の“音”を整え、伊佐は城下の“目”を増やし、小夜は旗の“間”を見ている。
春は、降る音よりも、止む音で知らせる。今日はその音だ。弦は緩んでいる。だが、矢は番えてある。いつでも放てる。いつまでも放たぬ。その矛盾を抱えたまま、私は白水の鐘を静かに二度だけ鳴らした。はい――もう一度。家の骨に、音が沈んでいくのを確かに感じた。