『春雪の報、亡将の影』
春の雪は、降る時よりも溶ける時に音が出る。城壁の石が僅かに温み、しずくが弦のように縁を叩く。中村の天守にて文を捌いていた折、床板の下から三つ、間を置いて二つ、さらに一つ――黒脛巾組の合図が走った。油の匂いをほとんど残さぬ足音、襖の影、ひと呼吸の沈黙。小夜が消えるように立ち上がり、梁の陰から巻皮を受け取って戻ってくる。「急ぎ」とだけ、目が言った。
封を切ると、紙の寒さが掌に刺さる。墨は走り、筆は揺れず、ただ一行目が短かった。
――上杉謙信、三月下旬、春日山にて急逝。
床の間の松が、枝を一度だけ鳴らした気がした。知っていた、とは言わぬ。余命を測り、父上にも「蘆名への刃は止め、時を待つ」と言わせたのは俺だ。だが、音のない報は静かに喉を枯らす。奥歯に残った冬の冷たさが、一息で砕けた。
「父上に使いを。置賜へ兵を動かし、守りを固く――急ぎだ」
言葉より先に足音が走る。遠藤基信に口上を預ける。置賜は米沢の南、伊達の背骨だ。赤湯、長井、川西、峠筋――春の泥がまだ人を呑むうちに、関の柵を立て、退き口を決め、火立を日毎に移す。父上が米沢で風を測れば、こちらは南の匂いを拾う。
「承ってございます」
基信の声はいつもの通り乾いていた。退き方を知る人間の声だ。彼が去るや、畳の目がひとつ、ふくらみを直した。小十郎が帳面を開く。火縄銃の揃え、駆け足で始めた撃ち替えの稽古――海から上げた“やり方”を、今度は陸で血と汗に変える番だ。
「小十郎、銃組は三十を一組、長二十・短十のまま。置賜へは半組だけ先行。残りは中村で“音”の管理を徹底する。乾かす日、撃つ日、運ぶ日――旗で合図を統一しろ」
「は。鍛冶二名、手入れの指図、明日より白水の鐘の手前で」
鐘は二打――はい、と、もう一度。自分で定めた約束が、今夜は妙に遠く聞こえる。謙信の名が、雪解けのように領内を走る。誰の耳にどう届くか、その先にどう膨らむか。黒脛巾は噂の縦糸横糸を知っている。小夜と伊佐に目をやると、二人は既に動きの地図を頭に広げていた。夜の口は少ないほうが良い。俺はただ、「頼む」と言い、二人はただ、頷いた。
夕刻前、二通目の報が届いた。紙の端に、城郭をかたどる印影。
――黒川城、蘆名、米沢へ兵を催す気配。出陣の烽火はまだ。槍奉行、兵粮の割付を始む。動けば二日、栗子口か。
「早いな」
声が勝手に低くなる。待つのは我らの習いだったはずだ。蘆名は、上杉の影が薄くなった隙を狙ってこちらの肩を押すつもりか。俺が置賜に手を伸ばした動きを、敵の誘いと読んだか。誘いには、誘い返しで答えるべき時がある。だが今は、弦を張り切ってはならない。
「定綱」
呼ぶと、大内定綱は鼻の奥で笑ってから、きちんと頭を垂れた。彼の笑いは、悪い時に限って役に立つ。
「蘆名へは何も流すな。ただし“蘆名の中に上杉の名代を憚る者あり”とだけ、会津の市井に落とせ。黒川の耳に届く前に、市場の耳で腐らせる」
「承知。ひと晩で浸みまする」
「最上はどう動く」
「黒川が南を向けば、最上は西の耳を大きく致すでしょう。口惜しゅうても、先には出ませぬ。が――耳は早い」
耳を早くする者は、舌も早い。最上義光の名が、うすい金の刃としてひたいの裏に刺さる。黒脛巾の一隊を、最上口の茶屋場に置け。金は薄く、話は厚く。
「藤五郎は」
「見張り台へ。狼煙の切り方を遠藤殿に付いて学んでおります」
小十郎の返しに、息が一つ楽になる。若竹の節に、今日という刻を刻ませる。俺は濡れ縁に出た。海松の板の冷たさが、踵を通って背骨に抜ける。庭では、愛姫が女たちに指示を出していた。湯、衣、祈りの場所。柱の役を、彼女は静かに、しかし揺るがず果たしている。視線だけ交わし、互いに言葉を省いた。言葉の省き方は、夫婦の“間”の稽古だ。
夜、白水の鐘の前に火を置いた。鍛冶二名が火挟を解き、火蓋を微かに削り、布の目を確かめる。銃は息。息は音。音は“見えぬ知らせ”だ。小夜が合図旗の角度を一分ずつ変え、若い銃組に“乾かす日”と“撃つ日”の見分けを叩き込む。俺は片目で火の色を見、もう片方の暗がりで人の動きを拾う。伊佐は人の見落とす影を拾い、拾った影から先の色を読む。二人の間に俺の呼吸を置く。置いた呼吸がぶれなければ、家はぶれない。
夜半、基信の使いが雪を踏んで戻った。拳ほどの氷を足袋に纏っている。
「米沢、置賜筋、動き速やか。赤湯に柵、長井に兵糧の集積。父上より“栗子の口、払うな、ただし塞げ”との仰せ」
「さすがだ」
栗子を払えば、蘆名は怒りで踏み出す。塞いで見せれば、怒りは迷いに変わる。“怒り”は走り、“迷い”は重くなる。重い敵を迎えるほどに、こちらの地は強さを増す。父上の言は、古く、そして新しい。俺は使いに熱い茶を飲ませ、すぐ返した。使者は返す速さが礼だ。
「小十郎、砦の名は“勿来”に倣い、“来るな”の意を二度書け。置賜の口も、名で脅す」
「は」
薄い笑いが広間に散り、すぐ収まった。笑いは油だ。過ぎれば火を呼ぶ。少ないほうがよい。
明け方前、黒川の方角に淡い火が立っては消えた。伊佐が戻る。髪の端に雪を乗せたまま、声は短い。
「兵は出ず。兵粮の荷車、十。槍の数、見せるための列。黒川は“構える姿”を見せています」
「構える者には、構えた姿を返せばよい」
俺は地図の上に指を置き、線を引かずに、指の腹で峠の骨だけ押した。押したところは、そこだけ沈み、そこだけ弾む。弾む場所に人を置く。沈む場所に柵を置く。
「遠藤」
「ここに」
「退きの路を三つ。昼の路、夜の路、嘘の路。嘘の路には、わざと印を残せ。蘆名が“見つけた”と思うだけで半日遅れる」
「承知。狼煙は薄く、旗は半分」
「小十郎、銃組は置賜へ半組、残りは中村で守りの音を教えろ。撃つための銃は半分で足りる。撃たぬための銃は、倍いる」
「御意」
窓の外が、青くなる。雪は音を失い、代わりに雀の小さな音が増えた。愛姫が湯の指図を終え、こちらへ歩む。歩みは柱の歩み。伊佐はその背を風から覆い、小夜は柱の前の風の隙を半分だけ塞いだ。隙は塞ぎすぎれば腐る。半分だけが良い。
昼、黒脛巾の別隊が戻り、耳打ちした。
「会津の市は、“蘆名の中にも上杉の名を憚る者あり”と。蔵の陰で囁かれております」
定綱が袖の中で笑い、小声で言う。「今夜には酒肆へ、明日には鍛冶へ、明後日には黒川へ。――耳は腹よりも早く満ちまする」
俺は頷き、畳の上に短く言葉を置いた。
「我らは“待つ”の型で攻め、“構える”の型で退く。父上の置賜は塞ぐ。中村は音で塞ぐ。黒川は見せる。見せるならば、こちらも見せる。矢は番え、弦は緩める」
矢は、いつでも放てる。だが、放たぬ矢が戦の形を作ることもある。春の戦は、刃の光よりも、泥の匂いが勝敗を左右する。泥に先に指を入れた者が、後の足を軽くする。
夕刻、白水の鐘を二度、静かに鳴らした。はい、と、もう一度。どちらも俺が鳴らした音だが、響きは家が返してくれる。鳴らし過ぎぬよう、耳で測る。黒川の火はまだ小さく、米沢の柵はすでに冷たく強い。謙信の死が空に広がり、その空の下で人が勝手な物語を作り始める。俺は俺の物語を選ぶ。血の少ない物語を、しかし骨の太い物語を。
夜、筆を取った。父上にもう一通、今度は短く。
――置賜の柵、名は「勿来二」。栗子は払わず、塞ぐ。黒川、見せるのみ。蘆名の耳に、上杉の名を潜らす。
鐘は二打。はい、と、もう一度。
政宗。
筆は冷たいが、墨は温い。紙に熱が移る。窓の外、春の雪が音をやめた。春は、まだ遠い。だが、音の止み方には、すでに春の形がある。俺は眼帯の下の闇で、風の筋をもう一度だけ確かめ、灯を落とした。明日は、泥の上での“待つ稽古”だ。待つ者の足は、走る者よりも強い。走る者の目は、待つ者よりも曇る。――その差で、今日を越える。