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『帰帆の報』

 松川浦の口が白くほどけ、潮の匂いが懐に戻ってきた。相模で吸った乾いた海の匂いと、陸奥の湿りを帯びた潮の匂いは、よく似て違う。黒塗りの舷に砕ける飛沫が、帰城の実感を確かめるように一度だけ頬へかかった。安宅船の腹は行きより重い。火縄銃の箱、胴乱、油壺、雨覆の束、そして連れてきた鍛冶二名の息遣い――数ではなく、やり方の重さが船底に座している。


 狼煙台に薄い煙が二度、間を置いて立った。沿岸の目付が働いている合図だ。甲板で私は帆を一分絞らせ、楫の切りを小さくさせた。船は城、舵は評定――殿の言葉が骨に残っている。藤五郎殿はもう嘔吐桶を持たない。足幅は半寸広く、膝は柔らかく、目は遠くの一定を捉えている。海は彼の中に一つ節を刻んだ。若竹は戻るたび、音を変える。


 揚げ板が砂を叩き、荷の受け渡しが始まる。銃箱は十挺ごとに中仕切り、緩衝に藁縄、火皿は布で別包み。玉薬は表向きは少量、後背で硝石と硫黄の筋を別に引いた袋が静かに移されていく。鍛冶二名――年長の方は手の節だらけだが指先が驚くほど静かで、若い方は目が利く。二人とも寒さを深く吸い込んで、こちらの空気を測っている。私が軽く頷くと、彼らは互いに小さく頷き返した。


 岸の松の影から、伊佐が一歩、光の中に出た。結び目の小さな合図が二つ、ひそやかに飛ぶ。沿岸の道に異状なし、港口に見知れぬ旗なし。彼女の視線は私の肩の高さで止まり、そこで護衛の線を引いた。言葉は要らぬ。影は薄いほど役に立つ。


 中村城までの道は短いようで長い。荷の重さが歩幅を整えさせる。城門前、門扉の鉄が冬の温度をまだ手放していない。番士の挨拶を受け、私は一呼吸おいて広間へ通る。畳の草の匂い、香は一葉。床の間の松が、帰参の作法を忘れるなと無言で戒める。殿は上段に、片目の奥で風を測りながら座しておられた。あの目に、海の色が一筋増えて見えたのは私の思い込みだろうか。


「――帰城、仕りました」


 額を畳に置く。乾きかけの塩が袖口でわずかに鳴る。殿は頷き、視線で続きを促された。私は懐中の帳面を取り出し、いつもの調子で、しかし一つずつ重みを置くように報告を始める。


「陸奥の名馬十頭、役にて売却。早川の渡しにて“泳がせ・駆けさせ・止めさせ”の三つの見せ場を設け、値ではなく役を見せる段取り、功を奏しました。その噂が城下に先行し、鍛冶座の頭領も自ら厩に出向いて確認。留守居役には御通交状を披見させ、小田原へ伊達の船が入る理を立てました」


 殿の肩先が一分だけ緩み、片目の光が深くなる。私は一礼して、火縄銃へと移った。


「火縄銃は長筒八十、短筒二十。いずれも口径を揃え、火挟は固すぎず、火皿蓋は雨中でも用が足りる仕立て。雨覆、胴乱、油、火蓋布まで一揃い。玉薬は表向き控えめ、硝石硫黄は別筋にて確保。鍛冶二名、半年の約。こちらの冬に耐える手入れの要、向こうの加工法、相互に学ばせます」


「揃えたか」


「はい。揃いが“息”を作ります」


 殿の口元がわずかに笑んだ。海の上で聞いた言葉を、陸で確かめ合う。私は帳面の別紙を差し出す。


「保管は土蔵の西寄りの間を改めたい。塩の吹き込みを避ける板張り、床下の風通し、油壺は箱の外へ、火は三重の約束。人の出入りは番を二重。鉄砲足軽の編成は三十を一組、長筒二十、短筒十。小半刻で三度の撃ち替えの稽古、“乾かす・詰める・渡す”までをやり方ごと刻ませたい」


「誰に任せる」


「撃ち方は私が、退き方は遠藤殿に。間の読みは藤五郎殿がよい。海で間を掴みました。黒脛巾には運び方と隠し方を。……小夜殿には“音”の管理を」


 上段の脇で小夜が一分だけ頷いた。彼女は“見えない音”をよく知っている。鳴らしてよい音と、鳴らしてはならぬ音。銃は鉄ではなく息、息は音で暴かれる。彼女の領分だ。


「鍛冶はどう使う」


「はじめの十日は“見るだけ”。次の十日は“触らせる”。三十日目で“任せる”。急がせぬほうが早い。火挟の癖、火蓋の噛み、雨覆の縫い目、胴乱の紐――細いところから伊達の流儀に変えます。丈尺の違いは早めに潰し、口径の揺れは箱ごとに札を付け、混ぜぬこと」


「よい」


 殿の声が低く落ちる。広間の空気がそれを受けて一寸、深くなった。報告はまだ続く。私は北条方の空気と商人の顔つきを短く伝え、早川の渡しで泳がせた馬の噂が翌朝には城下の子らの歌に紛れていたことを添えた。噂は風だ。殿が言ったとおり、読めば役に立ち、読めなければ嵐になる。


「……藤五郎は?」


 殿の問いは、船の上の若竹を思い出させる温だった。私は少しだけ口角を上げ、事実だけを差し出す。


「初日、吐く。二日目、立つ。三日目、見る。四日目、書く。五日目、打つ。六日目、笑う。七日目、泳ぐ。――帰りの潮では、帆綱を持たせても手が震えず。波の白を三数えて、浅さを言い当てます。安宅船を城と見立てる目が出てきました」


「よく刻んだ」


 藤五郎殿は広間の端で膝をつき、深く頭を垂れた。顔色は海の冷えを残しているが、目の底が変わった。殿が視線だけで「よい」と告げると、彼はもう一度深く頭を下げた。兄から殿へ――その間合いを、彼はもう恐れてはいない。


「して、小田原での“理”はどうだ」


「銭ではなく役を求むると言えば、留守居役の眉が一分上がりました。だが、馬が石の上を駆けた時、眉は下がりました。北条の中にも“役で見る目”は残っております。鍛冶は奥州の寒さを学びたがっていました。互いの不足を補えば、道は太くなります」


「道は太く」


 殿は床柱に一瞬だけ掌を置き、すぐに手を離した。柱は揺れない。だが、戻るためにしなる。私も胸の内で白水の鐘を一つだけ鳴らし、話を締めにかかった。


「最後に、倉と港の手当てを。銃の箱は土に置かず、杭で浮かせ、下へ風を通す。油は別座敷、火の間とは別。松川浦の倉は扉の桟をもう一段上げ、塩の吹きを避けたい。港には“乾かす場”を。布の水を抜く日は合図旗を。乾かす日は撃たない。撃つ日は乾かさない。――日を決めれば、噂も決まります」


「噂も決める、か」


「はい。噂は武具の一部。誰がどこで何を聞くか、そこにも番を」


 殿は静かに笑み、片目に淡い光を載せた。上段の影から伊佐が一歩出て、短く「任せて」とだけ言って退いた。余計な言葉はない。彼女の動きは、水に沈めた刃のように音を持たない。


「小十郎」


「は」


「船の次は人だ。銃は“やり方”で勝ち、やり方は“人”で続く。三十日で一度、白水の鐘の前に皆を連れてこい。藤五郎、お前が段取りを言い、遠藤が退きを見せ、小夜が“音”を消す。――鐘は二打、“はい”と“もう一度”だ」


「承りました」


 返事は短く、しかし広間の梁まで届いた気がした。報告の終わりに、私は一歩進み、深く頭を垂れる。帰城の挨拶は、戦の始まりだ。荷を降ろして終わりではない。荷を降ろしてからが、本当の重さである。


 退出の折、殿が低く呼び止められた。


「――小十郎」


「は」


「帰りの海は、何と言った」


「重いが、確か、と」


「家も、そうだ」


 その言葉が、今日の一番重い荷になった。だが、重い荷ほど担ぎ甲斐がある。広間を下がり、濡れ縁の海松の板に手を置く。相模の乾きを連れ帰った掌に、陸奥の湿りがゆっくり戻ってくる。港の方角では、火縄銃の箱が土蔵へ運ばれ、鍛冶の二人が肩の上で冬の色を測っている。藤五郎殿は遠藤と並んで狼煙台のほうを見ていた。風の切れ目、火の上げどころ、退きの路――若竹は、もう次の節を探している。


 広間の奥で、白水の鐘が小さく鳴った気がした。鳴らさぬ鐘は錆び、鳴らしすぎれば耳が痛む。今日の音は、小さく深く。銭より役、鉄より息、道より間。殿が言葉で示した筋に、海の塩と陸の灰で色がついた。

 帰帆の報は終わり、これからが始まりである。

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