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『銭より役を』

◇片倉小十郎視点◇


 相模の海は、陸奥の潮より温く、匂いも幾分柔らかい。早川の河口に安宅船を寄せたとき、波は砂を啄むように静かで、馬の耳もそばだたぬほどだった。遠くに小田原城の天守が霞み、海門の見張りが旗を振って合図を送る。こちらも返礼の旗を揚げると、番所から使者が浜に現れた。


 殿より託された段取りを思い返す。陸奥の名馬十頭を、値ではなく“役”で売る。金の多寡でなく、その馬が持つ戦の価値を語り、引き換えに火縄銃一揃いを受け取る。火薬、油、胴乱、雨覆まで欠かさず、さらに鍛冶二名を半年の約で連れ帰る――これが今回の使命だ。


 藤五郎殿は既に酔いも抜け、甲板上で馬の様子を確かめていた。塩気を帯びた風が鬣を揺らすたび、彼の目にわずかな誇りが浮かぶ。海の稽古を経た若武者の背筋は、出航の朝よりわずかに太くなっていた。


「藤五郎殿、上陸前に口上を復唱してみてください」


「はい。――この十頭、陸奥の寒風を越えて育った駿馬。坂も泥もいとわず、重甲の武者を背にして駆ける力あり。値は問わず、その役を見込んでの取引と願い奉る」


「よし。その口調で通せば、商人にも武家にも通じます」


 浜に上がると、北条家の留守居役が直々に出迎えた。年配ながら鋭い目つき、礼の角度も乱れない。私と藤五郎殿は伊達家の通交状を差し出し、安宅船での来訪である旨を伝えると、彼の口元がわずかに動いた。伊達家がこの規模の船を持ち、しかも鹿島灘を越えて来た事実。それだけで一つの噂になる。


 城下の厩に馬を移し、見せ場を整える。最初に放ったのは、栗毛の牡馬。背の高い武者を乗せ、石畳を疾駆させる。蹄が石を打つ音はまるで太鼓のように響き、見物の目が一斉に引き寄せられた。続いて芦毛、鹿毛、黒鹿毛。いずれも毛並みは艶やかで、鼻息は白く鋭い。私は商人たちの視線が銭勘定から武具の重さに変わる瞬間を逃さなかった。


「いかがでござる、早川の坂をこの脚で駆け下り、敵を蹴散らす様は」


 藤五郎殿が声を張る。商人たちは互いに目配せし、留守居役が一歩前に出た。


「値は?」


「値はお任せ致す。ただし、役に見合う品を求めます」


 その言葉に、留守居役の眉がわずかに上がる。銭を求めず、役を求める――これは武家の言葉だ。交渉はその場で火縄銃の話に移った。


 用意されていたのは、国友鍛冶による長筒八十挺、短筒二十挺。いずれも手入れが行き届き、銃身の油も新しい。私は一挺ずつ検め、火挟の動き、火蓋布の質、胴乱の仕立てまで確認する。藤五郎殿には火薬の粒立ちを見せ、湿気の有無を確かめさせた。


「この火薬なら、雨覆をかければ三日は持ちます」


「そうだ。雨覆は馬具と同じで、使う前から手入れが要る」


 交渉は滞りなく進み、鍛冶二名を半年間貸与する契約も取り付けた。彼らは奥州の寒冷に耐える火縄銃の製作法を求めており、その代わりに火挟や火蓋の加工法を伝えるという。双方に益がある取引だ。


 品物の受け渡しを終えると、留守居役が低く告げた。


「伊達殿のご船、見事にござる。これが鹿島灘を渡るとなれば、常陸や下総にも噂は届きましょう」


「噂は風と同じ、流れを読めば役に立つ。読めなければ嵐となる」


 そう答えると、彼は薄く笑った。


 城下を離れ、安宅船に戻る途中、藤五郎殿が小さく息をついた。背に負った新しい火縄銃の重みが、これからの務めを教えている。


「小十郎殿……殿が船を重要と申される理由、少しわかった気がします。海の向こうで取れるものは、銭だけではないのですね」


「そうです。役、噂、道――いずれも船で運べます」


 安宅船の帆が再び風をはらみ、相模の潮が船腹を押した。帰りの潮路は、来た時よりも確かに重く、しかし確かな手応えを伴っていた。殿の課は、こうしてひとつ形になったのである。



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