『影の正体──不動明王の寺の再会』
広間の空気が、ぴしりと張り詰めていた。
伊達輝宗公が正座し、その左右には重臣たち。
そして、その向こう側には、ひとりの僧がいた。
「梵天丸。参れ」
父の声にうなずいて、俺はちょこんと正座する。
けれど、心の中は――ぐらりと揺れていた。
見覚えが、ある。
いや、見覚えどころじゃない。絶対に、あのときの――。
(不動明王の寺で、俺が知ったかぶりをしていた……あのとき笑ってた坊主だ!!)
トラウマ級の赤っ恥事件。
その場にいた「くすくす笑う声」の正体が、今、目の前でにこにこしている。
いやだ。できれば、土に埋まりたい。
「紹介しよう。京都にて名を馳せた高僧、虎哉宗乙。このたび、汝の学問・道理・兵法、さらには心の道を教えてくださることとなった」
「……あの、よろしくおねがい……し……ます……」
声がどんどんしぼんでいく。
なのに虎哉の笑みは深くなっていくばかり。
「ふむ……梵天丸殿。なかなかよき声であるな。声の調べには心が出る。よろしい、礼儀は及第点」
と、そこまではよかった。
が、そのあと。虎哉宗乙の目が、するどく俺を見た。
「しかし――五つにして、女子の乳房に鼻の下を伸ばすとは、なかなかの風狂よな」
「ッッ!!」
俺は変な声が出そうになるのを、慌てて飲み込んだ。
やめろ坊主! やめろ! 父上の目の前でそれ言うなって!
しかも、横で喜多が目を閉じた。無言の圧が痛い。
くノ一ふたりが、後ろで肩を震わせているのが見える。笑ってるな、絶対笑ってるな!!
「宗乙殿……そのようなことを?」
父が、わずかに眉をしかめる。
「ははは、ご安心を。いたずらに言ったのではありませぬ。むしろ……心の健やかさの証でござるよ。欲というものは、生きる力。抑えるより、認めて磨くべきですな」
妙な説得力で押し通してきた。
そんな変な仏道あるか!? いや、あるのか!?
でも、父上が「ふむ……一理ある」とか言ってる。ダメだこの時代、坊主が一番こわい。
虎哉宗乙は、俺の頭を軽くなでながら言った。
「梵天丸殿。わしは“目の奥”を見ておりまするぞ。女子に興味を持つのも、くノ一を観察するのもよい。しかし、ただ見て悦ぶだけで終わっては、ただの阿呆」
「……はい」
「心で見よ。何を見て、何を学び、何を“守る”のか。そなたが選ぶ“戦”の意味を、己で考えられる子になれば、わしは何も言わぬ」
不思議と、怒られている感覚はなかった。
けれど、ただ甘やかされているわけでもない。
(……この坊主、やばい。本物だ)
目を逸らせなかった。
虎哉の背後には、あの日、あの寺で見た“鬼のような不動明王”の気配すらあるようで――
ふと、背筋にぞわりとした感覚が走った。
(そうだ……あのとき……)
俺は思い出した。
不動明王の像の背後、たしかに“誰か”が笑っていたのを。
虎哉宗乙ではない。
けれど、あの笑い声は、今日の訓練のあとに聞いた声と、酷似している。
(まさか……あのときから“俺”は、見られてた……?)
思考の海に沈みかけたそのとき、虎哉がぱちんと手を鳴らした。
「さ、梵天丸殿。今日から、まずは礼の形から始めましょうぞ。……とはいえ、童子に無理はさせませぬ。日々の“遊び”の中に、すべてを仕込みますゆえ、心配なく」
俺はごくりと喉を鳴らした。
遊びの中に“学”と“戒”を――
それはつまり、全力で俺の言動を観察されるってことじゃないか……!
「……よ、よろしくおねがい、します」
心からの、魂のこもった声だった。
虎哉宗乙は、にっこりと笑って――
その背後に、またも“気配”が揺れた。
見えないけれど、いる。
あの気配。あの影。
笑っていた“何者か”は、今も俺を見ている。
この国の未来を動かす存在のひとりとして。
(いいさ、望むところだ。見てろよ。……こっちは、前世で“教育番組”1000時間は観てきたんだ。礼儀作法くらい、ぜんぶ身につけてやる!)
そう、俺は……政宗になる男なのだから。
(つづく)