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『潮に刻む稽古』

◇片倉小十郎視点◇


私が最初に覚えたのは、海は嗅ぐものだということだった。松川浦を出て鹿島灘の色が一段深くなると、潮の匂いは土の匂いを追い出し、代わりに鉄と樹脂と馬の息が混ざり合う。安宅船の舷は黒く、朝に貼りついた霜はもう溶け、牡蠣殻で磨いた木肌がゆっくり呼吸をはじめる。帆綱を張り、楫を据え、馬の桟の楔をもう一度締める。――城を動かすとは、つまりこういう手順を毎刻続けることだと、殿に教わった。


 藤五郎殿は、甲板の真ん中でじっと立っていた。立ってはいるが、足の下で海が引いては寄せる。その「引く」と「寄せる」の間に己を置けるかどうかで、海の稽古の半分が決まる。若い眼は風を追っているが、まだ波の間合いが掴み切れていない。


「藤五郎殿、水は少し控えめに。口を湿らす程度で」


 そう声を掛けた時、彼は苦笑の形だけ作って頷いた。次の揺れで、苦笑は間に合わなくなる。馬の嘶きが一つ短く跳ね、船腹が低く唸る。私が嘔吐桶を差し出すより早く、彼は舷へ身を預けて肩を震わせた。初めての者は皆そうなる。海に恥はない。恥じるべきは、学ばぬことだけだ。


「目は近くを見ず、遠くの一定を拾ってください。あの白い雲の端、しばらく固定で」


「……ぅ、う、うむ……」


 声は掠れ、額の汗は冷たい。私は彼の背を片手で押さえ、もう片方の手で帆の角度を目で確かめる水主へ合図を送った。風はまだ硬い北、帆は欲張らず、舵は大きく。殿の言葉が胸の底で反芻される。船は城、甲板は馬場、艫の楫は評定の指し手。藤五郎殿の呼吸が整うまで、こちらの呼吸を乱してはならぬ。


 夕刻、馬の粥を温めさせ、桶に分け与える。荒い息の者は少なめに、臆した者には鼻先を撫でてから。馬は人の迷いを嗅ぐ。こちらが静かであるほど、馬房も静かになる。藤五郎殿には生姜を薄く利かせた湯を持たせた。口を湿らす程度、と再度念を押す。


「……小十郎殿。海は、体から余分なものを抜くと見えます」


「抜けたぶん、間を入れてください。間合いの無い速さは、転ぶ速さです」


 彼は頷き、また舷へ視線を投げた。星が出る。杓子の柄の延び方で夜の深さを読み、星の高さで時刻を測る。波の間隔が伸びると、眠気は近い。だが、眠らせすぎれば体はまた船を忘れる。私は見張りを交替させ、彼を甲板の中央へ連れていった。


「吐く時は吐き、立つ時は立つ。立ち続けるのも稽古です。足の裏で波を受け、膝で返す」


 藤五郎殿は言われた通り膝を緩め、両足幅を一寸広げた。次の揺れは、その身の中を抜けていった。良い。抜ける揺れと刺さる揺れの違いを、体が覚えはじめている。


 翌朝、風は少し落ち、潮の筋が東へ寄る。船頭が目で問う。私は首を振った。ここは鹿島灘の真ん中、欲の出る場所ではない。帆は小さく、楫で刻む。藤五郎殿には、一合升を渡して波の高さを毎刻読ませた。升の縁まで水が来る刻と、来ぬ刻。その差が船首の角度を教える。


「……ここで一度、食べたくなります」


「食べるのは良い兆しです。食べたあとも立てたら、海は半分味方です」


 彼は粟飯を少し口に運び、また遠くを見た。吐瀉の後の食は、石をひとつ拾い上げて胸に入れるようなものだ。重さは勇気になる。


 昼過ぎ、船の腹がふっと軽くなった。波の腰が抜ける前触れだ。私は船底の水を確認させ、桶を回させる。同時に馬房の楔をもう一度打たせた。揺れに油断した人間は、楔の一本を見落とす。


 藤五郎殿の顔色は、朝よりはましだが、まだ青い。私は彼に帆綱を握らせ、短く言った。


「藤五郎殿、殿は船は重要と考えております。船に慣れてください」


 言葉は刃の背で渡す。切っ先だけで渡せば心が縮む。背で渡せば芯に入る。藤五郎殿は唇を噛み、やがて小さく笑った。


「……はい。殿の“道”に、海が入っていますから」


「それでよい。陸の戦と違い、海は間を外した者から罰を与えます。間を読む稽古を、ここで刻む」


 その日の夕刻、彼に“紙と算用”の船務もやらせた。馬の餌、水、藁、油、松脂、釘、縄――どれも数がある。数は海では軽んじられるが、軽んじた家から沈む。彼は筆を取り、震える手で丁寧に記した。震えは恥ではない。震えを見せぬ筆こそ、信用ならぬ。


 夜半、見張り台で星と風の稽古を続けていると、船底から小さな音が上がった。桶が転がる音ではない。人の音だ。私は灯を手で覆い、音のする方へ降りた。藤五郎殿が馬の鼻面を撫でていた。吐いて、立って、書いて、また馬に触れている。良い。戦の前に、こういう手順を身に入れる者は強い。


 私の気配に気づくと、彼は軽く頭を下げた。


「馬が、私より静かでした」


「静かにしている時に、静かに触れる者に、馬はよく応えます」


「では、私はもう少し、静かになります」


「静かに“し過ぎ”ないでください。静は動の準備です」


 翌々日、波は低く、風は少し南を含んだ。船足が伸びる。藤五郎殿の顔にようやく血が戻る。私は試みに舷の外を指さした。


「白。白を拾ってください」


「はい。……白、三つ。間、二つ。次の白、浅い」


「その浅さが、舳の角度を教えます」


 彼はうなずき、口角をほんのわずかに上げた。笑いを大きくせぬのがよい。海は笑い声も増幅する。増幅された笑いは、足をすくう。


 日が落ちる前に、取引の段取りを復唱させた。陸奥の名馬十、役で売り、銭は低く見せ、火縄銃は揃いで受け取り、鍛冶二名を半年で引く。雨覆、火挟、火蓋布、胴乱、油。銃は鉄ではなく息――殿の言葉を、藤五郎殿は自分の舌で言い直した。自分の舌で言い直せる者は、現場で折れにくい。


 星が南中し、舵が夜の手に渡った頃、彼はもう嘔吐桶を手離していた。桶を離すことが偉いのではない。桶を持ちながらも立つことが偉い。立ちながら、遠くを一定に見続けることが、海で最初に得るべき誉れだ。


「小十郎殿」


「はい」


「小田原が近づいたら、私は泳いで馬を浜に誘います。……早川の渡しで“役”を見せるために」


「殿の段取りを、よく覚えておられる」


「はい。噂の先回りは、海でも陸でも理に適います」


 その答えに、私は心の中で白水の鐘をひとつ鳴らした。鳴らし過ぎると耳が痛むが、小さく一つなら、胸は整う。海は人の音を選ぶ。選んだ音だけ、遠くへ運ぶ。


 やがて、東の空が薄くほどけ、相模の山影が墨の線で浮かんだ。潮の匂いに、乾いた草の匂いがほのかに混じる。帆を少し絞り、舵を二分落とす。藤五郎殿は自ら馬房を見て回り、楔を一つ打ち直した。打つ前に躊躇がない。体が間を掴んだ証だ。


「藤五郎殿」


「はい」


「船酔いは、殿の言葉で言えば“間の病”です。間を刻めば治る。――治りかけを、忘れないでください」


「忘れません。忘れれば、海に叱られます」


 彼はそう言って、はじめて小さく笑った。その笑いは、船医の煎じ薬より効く。笑いの後で、彼は深く息を吸い込み、遠くをまっすぐに見た。そこに小田原がある。銭と理の町。噂と力の町。ここまでの揺れを、陸の交渉に持ち込まぬよう――私は自分の膝の力も一度抜いた。


 安宅船は、なお黒々とした舷で波を払い、ゆっくりと白い道を延ばしていった。私の掌の中に、殿の言葉がいくつも残る。船は城、城は人、海は間。藤五郎殿は、嘔吐桶を離し、帆綱を握った。ならば、この稽古は半ばを越えた。残りは陸で刻む。陸で火を扱い、鉄で息を揃え、やり方ごと奥州へ持ち帰る。


 ――殿。船に慣れよ、との御遺言、確かに伝えました。若は吐いて立ち、立って見て、見て刻みました。これならば、次の潮でもう一歩、遠くへ出せます。私は舵の陰で、そう小さく報告して、風の向きをもう一度だけ確かめた。

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