『潮路の課』
松川浦の朝は、松の影よりも先に潮の匂いが起きてくる。薄く凍った板子に霜が光り、棟梁たちの墨縄がぴんと鳴るたび、冬の余韻が小さく跳ねた。安宅船の舷は黒く、内側は乾いた木の音がよく通る。船腹に組んだ馬 stall の桟は昨夜のうちにもう一度締め直させ、敷き藁は程よく湿りを含ませた。陸の名馬には船の匂いが毒だ、という者もいる。だが、匂いは慣れる。慣れぬのは人の間だ。間を外した者から、海は容赦なくひっくり返す。
「――発つ」
俺の一声に、動きが一段速くなる。片倉小十郎はすでに揚げ板の勾配を目で測り、馬を載せる順を決めていた。気性の強いものから先に、しかも鼻先を南に向けさせて船底に誘う。北を向かせると、帰るという観念が馬にも宿る。馬は賢い。人の迷いをすぐ嗅ぐ。
「殿、十頭、年は四から五。大柄のものは二列の中桟を外して広く取ります。海に慣れさせるため、初日は水を少なめに。夜、温めた粥を少し」
小十郎の段取りはいつも気持ちがよい。俺は頷き、次の言葉を置いた。
「藤五郎」
「はい」
伊達藤五郎成実は、昨日よりわずかに目が海を見ている。よい兆だ。目は地図の墨ではなく、風の線を追え。俺は指で甲板を示し、命を切り出す。
「初手の“課”だ。小田原までの潮路を、船頭に任すな。習いながら、先に読め。鹿島灘の筋と風の裏。寄港は天候次第、一泊は外海で投錨にしてもよい――船は城だ。城を動かす気で構えろ」
「御意」
「そして小田原。陸奥の名馬十。気性強し。ただし血統良し。これを“値”ではなく“役”で売れ。先方は銭で計る。お前は“戦での重さ”で押せ。引き換えるのは火縄銃。長筒八十、短筒二十。雨覆、火挟、予備の蛇口、銃袋、油、胴乱、火皿蓋まで一揃い。玉薬は人目のある場で多くは求めるな。硝石と硫黄の筋は別に引く。鍛冶二名、こちらに引き抜け。半年の約束でよい」
藤五郎は反芻するように復唱し、最後に「御意」と短く重ねた。よい。返事が短いのは、胸の中で繰り返す言葉が長いからだ。長さは外へ出すな。内で温めろ。
「取引の場は?」
片倉が問う。俺は袖から封を三つ出し、小十郎、藤五郎、そして安宅船の棟梁にそれぞれ渡した。封蝋には伊達の竹を押す。
「ひとつは小田原城下・鍛冶座の頭領宛の通交状。先の往来で顔を繋いだ。ひとつは北条氏政公の留守居への書付、これは“小田原へ伊達の船が入る道理”の証。もうひとつは内々、商人の間で通る“借札”。銭の不足はこれで補え。ただし、名は立てるな。旗は高く、金は低く。……これが“戦にならない戦”だ」
俺は続けて、言葉を一つずつ畳に置くように、策を置いた。
「先方で“値切られた”と見せてよい。馬の美さは道中で見せる。小田原の手前、早川の渡しで一度、馬を泳がせろ。浜で脚の良さを見せる。それを見た者の噂が城下に先回りする。噂は値を上げる」
「御意」
藤五郎の返答が静かに落ちる。静かな返事は、足場を固める。安宅船の腹で、馬が小さくいななき、藁が擦れて音が立った。
「影はどう回す」
小十郎が目だけで訊ねる。俺は頷き、背後にひそみ立つ伊佐に目をやった。黒羽二重に千鳥掛けの細帯、見慣れた装束のまま、今日の伊佐は一段と気配が薄い。目が合うと、指が二つだけ動く。海、風――了解の合図だ。
「沿岸に薄く。勿来・平潟・波崎に目。必要のない刃は抜くな。必要な時は、最初の一手で終わせ」
「承りました」
それだけ言って、伊佐は歩を引いた。言葉は要らない。俺の傍は彼女の場所、船の傍は今日の任。愛姫が内の柱なら、伊佐は外の影だ。二つの支えが揺れを打ち消す。揺れを嫌えば、海は歩けない。
「殿」
藤五郎が小さく息を吸い、声を落とす。
「火縄銃は、数だけでなく“揃い”も要でございましょうか」
「揃えろ。同尺、同口径の組を作れ。弾の合いは“戦の息”を作る。長筒は雨の時、火が飛びやすい。火蓋布は多めに。油は良いものを惜しむな。香が強すぎると匂いで敵に悟られる。匂いも“音”だ」
「はい」
「鉄砲は人を速くするが、愚かにもする。速さで勝ると、すぐ慢が孕む。お前は“使い方”を買ってこい。銃そのものより、撃ち方・渡し方・乾かし方・運び方を。それがこの家の血になる」
藤五郎は額を垂れ、短く「心得ました」と言った。片倉が横で筆を走らせ、棟梁が船縁を叩いて部下へ合図を送る。馬が一頭、のぼり口をためらい、次の瞬間には鼻面を先へ伸ばした。最初の一歩を促すのは、鞭ではない。鼻先の向きだ。人も同じ。
出立の刻が来る。潮は東へ寄れ、風は北から少し落ちた。いい。帆を欲張るな。帆は小さく、舵は大きく。俺は船尾に立ち、最後の言葉を送る。
「――藤五郎」
「はい」
「“兄”はしまったと言ったが、道の端が崩れたらすぐ出せ。主と家臣の間に、兄弟の間を隠し味にしてもよい。兵の前では見せるな。だが海の上では、一瞬だけ見せてもよい。人は、人の温で持つ」
藤五郎の目が、ほんの一つ息だけ柔らかくなった。
「殿。戻りましたら、白水の鐘の前で、撃ち方の次第をお目にかけます」
「待っている。鐘は二打――“はい”と“もう一度”だ」
帆綱が鳴り、碇鎖が水に落ちる音が腹に響く。船が息を吸い、出た。松川浦の喉を抜けると、海の色が一段深くなる。波頭が砕け、白が風に千切れて戻ってくる。甲板で片倉が舟大工に短い指示を飛ばし、藤五郎はすでに船腹の重さと波の間を目で測っている。良い。目は学ぶ。学んだ目は、いずれ人を守る。
俺は濡れ縁に下り、掌を海松の板に当てた。冷たさの奥に、確かな温みがある。背後で小夜が風の向きをもう一度見て、門手の合図旗を半寸下げた。狼煙台に薄い煙が一筋立ち、すぐ消える。合図は最小、効果は最大。影は薄いほど、役に立つ。
「殿」
伊佐が戻ってきた。目は遠くの海ではなく、俺の右肩の高さを見ている。護る者の目だ。
「沿岸の目付け、置きました。戻りの風を一度確かめます」
「ああ。……帰りの荷は木箱に入る。だが、一番重いのは“やり方”だ。やり方の箱に、隙を作るな」
「はい」
短い返事。短いが、温い。俺は彼女の肩に一瞬だけ触れ、すぐ手を離した。公に長く触れてはいけない。だが、触れねばならぬ時もある。それが二人の約だ。
安宅船の影が浦の口を離れ、鹿島灘の方角へ小さくなっていく。黒い舷に白い跳ねが散り、帆柱の影が海に揺れて消える。俺はその背を目で追い、胸の内で白水の鐘を小さく鳴らした。鳴らぬ鐘は錆びる。鳴らし過ぎる鐘は耳を痛める。今は小さく、深く。
「火縄銃は鉄ではない。人の“息”だ」
低く言ってみる。言葉は板に吸われ、すぐに海に返った。松川浦に戻る潮の匂いは濃く、冬の冷たさの底で、春が確かな形を持ちはじめていた。藤五郎がその形を掴んで帰るまで、俺は内を整え、外を薄く守り続ける。柱と影を、いま一度確かめて。
――道は海にもある。風で増え、風で減る。
その道に若竹を立て、鉄の息を積む。戻る時、船はもっと軽く、家はもっと重くなっているだろう。そう思いながら、俺は靴裏で板のきしみを一つだけ確かめ、城への坂を登りはじめた。