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『兄から殿へ』

朝の風が、城壁の端を薄く撫でた。まだ冬を抱いたままの風だが、吐く息の白は昨日よりも短い。中村城の門前では、黒脛巾の若いのが交代で見張り台を上下し、狼煙台へと続く縄の張り具合を指で確かめていた。松川浦の方角からはかすかにピッチの匂いが来て、遠くの板金具が日を跳ね返す乾いた光が目に刺さる。


「殿、北の路、埃が上がりました。三十騎、旗印は伊達」


小夜の声は、いつも通りに静かだが、語尾が半分だけ上ずる。待つ者の嬉しさを、余白で言う女だ。


「来たか」


俺は襟を正し、門前の土の感触を足裏で確かめた。土は冷え、しかし凍ってはいない。鳴らさずに鳴る鐘のような朝だった。


やがて、馬の鼻息と蹄の音が途切れ、列の先頭の若武者がひとつ息を整えてから馬を降りた。年の頃は俺より二つ下――いや、昔はただの「弟分」だった顔に、今は別の影が差している。鼻筋は実元叔父に似て、目の底にあの家の硬さがいる。


伊達藤五郎成実。約束どおり、ここへ来た。


「――中村城、伊達政宗様の御前に、伊達藤五郎、参上つかまつりました」


よそよそしい。いや、正しい。彼は膝をつき、額を土へ近づける角度をきっちり測った。昔、この城の裏庭で俺と木刀を振り回して泥まみれになった少年が、礼法の刃を身に帯びて戻ってきた。そこに喜びと、わずかな寂しさが混ざるのを、俺は隠さなかったし、隠せもしなかった。


「藤五郎。よく来た」


わずかに名を呼ぶ。顔を上げた彼の目の色が、ほんの一瞬だけ揺れる。鋼に似た色だが、水も混じる。その水は、渡るためのものだ。


彼は深く息を吸い、はっきりと言った。


「昔は兄と呼んでいたが――本日より、我が主。殿と呼ばせていただきます」


小夜がわずかに顎を引き、門の上で黒脛巾の若いのが息を飲む気配が下にまで降りてきた。伊佐は莚を抱えたまま固まり、喜多がその肘を無言で押し下げる。片倉小十郎は半歩後ろで、目だけを柔らかくした。遠藤基信は肩の力を抜いて膝を正し、大内定綱は鼻で笑いながら、笑いの半分を袖に隠した。


俺はうなずいた。それだけで足りる時もある。


「では、今日から“使う”。こき使うぞ」


「こ……きますか! 俺、汁の用意を!」


伊佐が嬉々として踵を返し、喜多の扇が音もなく後頭を打つ。ぱしん。必要な音だ。場の張りつめが、良い方向へ一分だけ緩む。


「藤五郎」


呼ぶと、彼は即座に座を正した。言葉を続ける。


「約は果たす。まずは三つだけ、心に入れろ。ひとつ、海で“間”を覚えること。松川浦で板目と風を読み、間を外せばどれほど簡単にひっくり返るか、体で知れ。ふたつ、風で“道”を知ること。勿来の見張り台で、狼煙の繋ぎと退き口の設計を学べ。地図の線ではなく、風の線で道を描け。みっつ、人で“はい”を言うこと。白水の鐘の前で、和尚に起請の筆を立て、胸で鐘を鳴らして『はい』を覚えろ。人は『はい』を言える場所を持つほど強くなる」


「御意」


返事が一寸早い。よい。早さは熱だ。熱は磨けば光る。焼けば折れる。俺の役目は磨くほうだ。


「働きの割りを言う。海は棟梁に、槍は鬼庭へ……と言いたいが、鬼庭右衛門は磐城にいる。代って遠藤が“退き方”を教える。帳場の目は片倉、風の読みは小夜、影は黒脛巾の頭に付け。……伊佐は」


「はいっ、莚侍大将、伊佐!」


「転ばぬことを教えてやれ」


「畏まりました!」


笑いが一筋走り、土の匂いが軽くなる。藤五郎はその笑いに乗らない。乗らずに、笑いの方向を正確に測る。若いのに、すでに“場”の癖を知っている。育ちの骨だ。骨は折るものではない。節を刻ませればよい。


門をくぐって広間へ。白い紙に墨を落とすための机が用意されている。墨は濃すぎず薄すぎず、筆は新しいが、穂先はわずかに揃えが甘い。わざとだ。甘さは力加減を教える。


「藤五郎成実、政宗様の御馬前にて誓い候」


彼は筆を取り、起請の文を読み上げながら、迷いなく文字を置いた。『主命、軍後、欺かず。利に偏らず、怨みに走らず。勝ちは慢を孕み、負けは学びを孕むと知る。道は己が先に通らず、民を先に通す。』

文言を言い切ると、花押を収め、筆を自らの爪に軽く当てて血を一滴、印に押した。白水では鐘の前で誓わせる。それまでの“繋ぎ”だ。だが、この一滴の血が軽いとは思わない。若い血は熱く、熱いものは軽くない。


「藤五郎、立て」


彼は立つ。俺は軍扇の骨を一本外し、彼の手に渡した。骨は軽いが、折れにくい。


「折るな。軋ませろ。軋みの音を聞け。聞こえるうちは折れない」


「承ります」


言葉が短く、余白が深い。余白が深いということは、信が深いということだ。広間の端で、片倉が目礼し、定綱が鼻を鳴らし、遠藤が「良い“退き”ができる」と小さく呟いた。小夜は風の向きをほんのわずかに見て、障子の隙を半分だけ閉じた。隙は塞ぎすぎると腐る。半分だけが良い。


式が終わると、俺は藤五郎だけを連れて庭に出た。梅の蕾はまだ固く、砂利は冬の色だ。濡れ縁の海松の板が陽を吸って、指先で触ると冬の冷たさの奥に薄い温がいる。


「藤五郎」


「はい」


「“兄”は、今日からしまっておく。必要なら出す。だが、今は要らない」


「はい」


「ただ、俺はお前の背を知っている。背が疲れたら、すぐ言え。背に風を当てる位置に柱を据える。それが主の役だ。間違っても、背を折るために柱を立てはしない」


藤五郎は頭を垂れ、しばらく黙した。沈黙は逃げではない。重さを均すための呼吸だ。やがて、顔を上げる。


「……城を出る前夜、父上が申されました。『お前は政宗の“先触れ”だ。客将ではない。人質でもない』と。私は、殿の風を嗅ぎ、殿の道へ先に足を入れ、殿の“はい”を人の前で先に申す役を賜りました」


「良い父だ」


「はい。……ですから、兄上――いえ、殿。“兄”はしまいました。しまったものは、いつでも取り出せます。けれど、殿の“先”は、今しかありません」


その言葉を聞くために、今朝の風がここまで来たのだと思った。胸の中の白水の鐘が、小さく、しかし確かに鳴る。


「ならば、先に行け。だが、走る脚に“間”を置け。間のない速さは、転ぶ速さだ」


「伊佐殿がいますので」


「それは心配だ」


ふたりで笑った。笑いは短くてよい。短い笑いは、長い緊張に効く。


そこへ、片倉と遠藤が現れた。片倉は帳面と筆を、遠藤は実戦の癖を身にまとっている。


「殿、手始めに松川浦へ。棟梁が“目を肥やせ”と申しております」


「勿来の見張り台は、今夜の月で教えが早い」と遠藤。「狼煙の遅れは心の遅れ。心の遅れは足の遅れ」


「よし。今日の教えは“目”“風”“足”だ」


「あと“莚”です!」


伊佐が莚を肩に背負って駆け込んできた。喜多の扇が空を切り、「あなたは最後に来なさい」と叱る。黒脛巾の頭がさっと近づき、「若殿、藤五郎様、一里先で薄く影になります」と低声で告げる。影は濃いと嫌われ、薄いと頼られる。


出立の支度は短く、動きは速いが、無駄はない。藤五郎は馬の鐙に足をかけ、丁寧に腰を落とす。昔はすぐに踵で馬の腹を蹴っていた。年というより、覚悟が人の腰を変える。


門を出る前、俺は彼の背を呼び止めた。


「藤五郎」


「はい」


「名のことだが」


「成実――と、いただきました」


「そうか。ならば、実を成せ。竹は節で強くなる。節は痛みと笑いで刻め。痛みの後は湯、湯の後は笑い、笑いの後は仕事だ。順を違えるな」


「はい」


短い「はい」。白水の鐘の音と重なって、遠くで波の返す音が聞こえた気がした。松川浦の潮は今日も息をしている。海は道だ。風で増え、風で減る。その道の先に、若竹を立たせる。


「出ろ」


俺が言うと、列は音を立てずに動き出した。狼煙台に一寸、薄い煙が立ち、すぐに消える。合図は最小、効果は最大。城の内で、喜多が湯の支度を始め、小夜が障子の隙をもう半分閉め、片倉が帳面に新しい名を書き、定綱が鼻で笑いながら噂の種を軽く撒く。


俺は濡れ縁に出て、海松の板に掌を当てた。冬の冷たさの奥に、確かに温がある。柱は揺れぬために打たれ、戻るためにしなり、強くなるために節を刻む。藤五郎の節は、今日、最初の印をつけた。槌を振るうのは俺だが、槌の音は家の音でもある。


「兄から殿へ、か」


口の中で転がしてみる。苦くはない。甘すぎもしない。戦よりも難しい礼の味がした。


門外の道で、若竹の背が一度だけ揺れ、すぐにまっすぐに戻った。風に添うて戻る。竹の務めだ。鳴らさぬ鐘を胸で鳴らしながら、俺は静かにうなずいた。いい“先触れ”になる。ならせる。そう心の中で言い切り、松川浦の方角へ目を細めた。潮の匂いが、確かに、強くなってきていた。

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