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『藤五郎をこき使え』

広間の空気がようやく日常へ戻りつつあるのを背に、長い廊を歩いた。干し藺草の甘い匂いと、蝋のうっすらした光沢。冬がまだ手放さない冷気が板戸の隙から細く染み込み、足袋の底で静かに四角く広がる。先ほどの柏手の余韻が梁のどこかに残っているのか、呼吸を合わせるたび胸のうちで小さく鳴った。


「政宗」


呼ぶ声は柔らかく、それでいて綿の中に針を仕込んだような張りがあった。振り向けば、伊達実元が柱の影から現れ、笑みを浅く乗せて立っている。目尻に刻まれた皺が、米沢の冬よりも人を温める。


「叔父上」


「祝いの席に口出しが多すぎたな。年寄りの悪癖だ。だが、ことわりは通すに限る」


柏手のことを言っているのだろう。あの二つの音は、釘を緩め、扇の刃を鞘に戻した。俺は深く礼をした。


「助かりました。あの一手で座が救われました」


「座は救っても、家はこれからだ」


実元は一歩、俺に近づいて声を潜めた。香の筋が細く二人の間を通る。


「そろそろ中村へ、せがれを向かわせる。藤五郎だ。約したろう? “こき使ってやってください”」


こき使う――叔父の口から出ると、品の悪い言葉が、妙に頼もしい誓文に聞こえる。俺の脳裏に、昔、米沢を出る夜に実元と膳を囲んだあの宿の灯りが蘇った。北を背に、南へ伸びる道を語った夜。彼はそこで「藤五郎を預ける」と言い、俺は「預かる」と応えた。約、今、果たされる。


「ありがたく。……ただ“こき使う”にも筋を通します」


「ふむ」


「中村に来たら、まずは松川浦で潮の教えを受けさせます。船は間を外せばひっくり返る。家も同じ。間の読み方を身につけさせる。次に勿来、平城。狼煙の繋ぎと退き口の設計を、現場で骨にしてもらう。槍の稽古は鬼庭に預ける。黒脛巾にも半月、一里先行の“薄い影”を学ばせる。……最後に、帳場。市場の出入り、塩と魚、木と鉄の流れ、数字の嘘に鼻が利くよう、鼻を紙で黒くしてもらう」


実元の口元が、目に見えないほどわずかに緩んだ。


「骨も鼻も、ほどよく折ってやってくれ」


「折らず、軋ませます。折れる前に鳴る音を覚えさせる。鳴りを聞ければ、折らずに済む」


「よい」


頷きは短いが、重い。彼の頷きは、老の了承であると同時に、若に背中を押す手でもある。実元はさらに声を落とした。


「藤五郎は、わしの息子である前に、一門の兵のひとりだ。人質に出すのではない。客将でもない。――政宗、おぬしの“道”の、先触れにしてくれ」


「承る。人質のつもりなら断った。客将のつもりなら返した。先触れなら、道の風を嗅がせる。鼻をまず海に、次に山に、最後に人に向ける」


「うむ」


実元はそこで、廊の格子越しに空を一瞥した。灰の天。薄く光る雲の縁。冬の色のまま、どこかで春が仕込みをしている。


「義姫は矢だ。矢はまっすぐで、たまに戻る。今日のところは戻りかけておる。国分は扇だ。力の加減で刃にも風にもなる。わしはわしで、あの二人の“軋み”を聞いておこう。おぬしは南の風と、女の声を聞け。内が鳴れば外は止む。外が鳴れば内は止む。両方鳴ったら、老に投げよ」


「ありがたい。迷わず投げます」


「投げられたら拾うしかないな」


実元が苦笑した。笑い方に、若い頃の無鉄砲がまだ残っている。あの頃の叔父は、風に向かって走る男だった。今は、風の切れ目を見極めて走らせる男だ。


「藤五郎は、いつ頃」


「すぐだ。三日もすれば米沢を出す。中村までの道の上で、一度“迷わせる”。迷いは若にとって贅沢な訓練だ。迷って戻る道筋を覚えぬ者に、道は預けられぬ」


「こちらでも“迷わせる”場所は用意しておきます。松川浦の潮目、勿来の風、白水の鐘。鐘は二打。彼の胸で鳴らせる」


「……政宗」


「はい」


実元は少しだけ表情を改め、まっすぐ俺を見た。


「わしは、おぬしが“こき使う”の意味を知っていると信じておる。重荷を無闇に載せるな。重みは柱へ、軽さは橋へ。せがれの“身の打ち込み”は、わしが骨を張った。あとは“節”を刻ませてやってくれ」


「任せてください。節は、痛みと笑いで刻みます」


「笑いは忘れるな。笑いのない節は、乾いて割れる」


その時だ。廊の角から伊佐が飛び出してきて、胸に莚を抱えたまま、するりと足を滑らせた。見事な前転。莚はふわりと空へ舞い、実元の頭上を越えて俺の足元にするりと着地した。


「殿! “こき使う”と聞こえて――“漉き汁”の準備を!」


「誰が汁を漉けと言った」


「こき、ですから、漉き……」


「あなたの耳こそ漉いて差し上げたい」


背後から喜多の扇が飛んできて、伊佐の後頭を軽やかに打った。ぱしん、と良い音が連続する。実元が肩を震わせて笑い、小さく掌を打ち合わせた。


「こういう音だ。これが家の油になる」


「油が多いと火が上がります」


喜多が冷たく言い、しかし目だけは笑っていた。小夜は柱の影から出てきて、莚の端を一寸整えた。


「叔父上、御足元」


「心得た。……伊佐殿、漉き汁は今度わしにも分けてくれ」


「はっ! 義理人情、伊佐の汁!」


「やめてくれ」


俺と喜多の声が重なり、廊にまた笑いが走る。薄い笑いは、厚い議のあとによく効く。


笑いが落ち着くと、実元はふたたび真顔に戻り、声を低くした。


「国分の扇は、まだ風を探している。わしからも言っておく。噂は広間よりも廊で生まれる。廊を冷やすな。松川浦の噂、愛姫の噂、白水の鐘の噂――“よい噂”で廊を満たせ。悪い噂は隙に棲む」


「承知。噂は道具に。道具は使い方で毒にも薬にもなる」


「うむ。……では、わしはこれで」


実元は軽く膝を折って去っていった。背中が小さくなるまで見送る。廊のむこう、障子に差す光が一段だけ明るくなった。雲が薄まったのだろう。冬の空は気まぐれだが、気まぐれの中に規則がある。風の筋、光の切れ目。眼帯の下が、わずかにうずいた。良い兆しだ。


「殿」


小夜がそっと寄る。「藤五郎様、お迎えの稽古はどちらから」


「まずは海。潮と板目の勘。次に風。勿来の見張り台。最後に人。白水の鐘の前で“はい”の練習だ」


「“はい”は、節の音」


「そうだ」


俺は莚を足で寄せ、板に残った水の跡を見た。滴は二つ、並んでいる。今日の柏手の音に似ている。二つの音が、座を救い、道を繋いだ。次は俺の番だ。中村へ戻れば、愛姫と藤五郎を同じ風の下に置く。柱と若竹。風で鳴らし、鳴りで強くする。


「伊佐、莚は持って行け。漉き汁は……」


「厨房に走ります!」


「違う、置いて行け」


「はっ」


喜多がため息をつき、しかし足取りは軽い。廊の先で黒脛巾の若いのが、何も言わずに片手を挙げて消えた。薄い影は、今日もよく働く。


俺は歩みを再開した。板戸の隙から差し込む光が、畳の目を一列だけ際立たせる。節を刻む場所が、そこにあるように見えた。藤五郎を“こき使う”。言葉は乱暴だが、乱暴さを受け止める手当を、俺は知っている。痛みのあとに湯、湯のあとに笑い、笑いのあとに仕事。順序を違えなければ、若は折れない。


松川浦の風が、遠くで一度だけ鳴った気がした。白水の鐘は鳴らしていないのに、胸の中で薄く響いた。三日後――中村の門に、若竹が一本加わる。俺はその竹に、最初の節を刻むための槌を、静かに握り直した。

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