『広間に響く柏手』
米沢城の広間は、冬の光を薄くたたえたまま、春を迎える準備をしていた。長押に掛けた白紙の御目録がわずかに揺れ、畳の目は朝から丹念に拭かれ、香は強すぎぬよう一葉だけ焚かれている。床の間には梅の蕾を二枝、余白は大きく、言葉の置き場をあらかじめ空けてくれているようだった。
「――本日、伊達家御台所、三春・田村清顕殿御息女、愛殿を家中へ披露いたす」
声に刀気は要らぬ。だが、息を合わせる太鼓くらいの厚みはいる。俺が一礼して言上すると、左右の列がいっせいに頭を垂れ、白い礼の波が畳の上を静かに進んだ。愛姫は御簾の陰から一歩、二歩と座へ入り、淡い浅葱の小袖が光の縁で息をした。膝の置き方が良い。座は、座る者の呼吸で広くも狭くもなる。
まず、伊達一門の長老格、伊達実元が笑みを浅く乗せて進み出た。目尻に皺が寄る。それが広間の緊張を一つ、ほどく。
「御台所さま、ようこそ。政宗殿の“道”の話は、かねてより耳にいたしておる。道を広げるは外の働き、道を太くするは内の働き。わしはこの齢、外の道を急がず、内の太さを育てることの大切さを、骨で知った。……頼もしき柱、入られたな」
礼の言葉が、喜びを押しつけることなく座の温度を上げる。続いて留守政景。軍装ではなく式服、しかし腰の据わりには野の匂いがある。
「御台所さま。留守は“留め守る”ゆえの姓、広間の左右も、城下の井戸も、松川浦の風も、日々の些末にこそ伊達の命は宿ると心得ます。どうか、些末をご下問あれ。些末は侮るに似て、国の骨でございます」
言葉が畳に沈み、香の筋がまた細く立った。愛姫は静かに頷き、視線だけで礼を返した。その視線は、俺の胸の緊張糸を一本、静かに解く。
そこへ、叔父・国分政重が扇を打って一歩出た。扇の骨が乾いて鳴る。嫌な音ではない。だが、紙の端に刃が仕込まれているのが見える。
「御台所殿、歓迎つかまつる。……だが、ひとつ思うところもある。織田家は勢い盛ん、徳川もまたしかり。そこから嫁を賜れば、伊達家にいっそう箔が付いたやもしれぬ。三春は所詮、小大名。政宗殿、先見の明を持つと聞いたが――どうやら、お噂ほどではないやもしれませぬな」
広間の空気が一手で曇る。畳の目が少し荒く見えるのは、俺の眼帯のせいではあるまい。扇の先が、俺ではなく愛姫へ向いているのを、視界の端で確認した。盾になるのは易い。だが、ここで俺が前に出れば、彼女の立つ場所はこの先ずっと狭くなる。言葉で勝ちたいのは俺ではない――伊達家の理だ。
「国分殿」
片倉小十郎が、膝を半歩だけ進めて声を置いた。柔らかな声だが、芯は通っている。目は政重の扇ではなく、その握りの力の入り具合を見ている。
「理をひとつ伺いたい。初代征夷大将軍、坂上田村麻呂公の流れを汲む田村家の血を、伊達に迎え入れること――これを“箔に非ず”と申されるか」
広間の空気が、目に見えぬところでわずかに震えた。田村麻呂。征夷将軍という語は、冬の身を一つ伸ばす。政重のまつ毛が一度だけ上下し、扇の骨が指で鳴った。反駁の言葉を探しにいった舌が、理の重さで戻り道を失うのが見える。
「伊達の竹紋と、田村の将軍譜。武の家にとって、どれほどの筋目か。箔は外から金を貼るもの、筋は木の内から出るもの。どちらが長く持つかは、国分殿ほどの御目にも明らか」
小十郎の言葉は、飾り気がない。だが、飾り気がないから、刃が鈍らない。政重は口を開きかけて閉じた。扇の先が、宙で行き場を失って戻る。沈黙が刃の形を失い、ただの空白になる。座の端で大内定綱がうっすら笑い、遠藤基信が無意識に膝を正す。小夜は気配を薄くして、風の向きを読み直していた。
空白は、悪い。空白は噂に食われる。俺が口を開こうとした、その瞬間だ。ぱん、と柏手が二つ、広間に明るく響いた。実元である。老の手の音は若い。乾いて、よく通る。
「――祝いの席だ。祝いの理を数えようぞ」
実元の目が笑う。笑いを捻じ込むのではない。笑いの“間”を作る。柏手の音は、香の筋より早く座の隅々に届き、釘の緊張を一本ずつ緩めていく。
「国分殿、御尤もな“案じ”は、わしら老の役目。若い者には“選び”の役目がある。選びは、時に外から見て愚にも見えるが、筋を通しておれば後年、理に化ける。……さて、祝いの理に戻ろう。御台所殿の入られたこの“今日”、わしらが何を贈るべきか」
実元はそこで、俺のほうへ軽く顎をしゃくった。合図だ。沈み込んだ膝の裏に、ばねが戻る。俺は膝を進め、あえて軽い声で言葉を置いた。
「祝いの理は三つ。ひとつは“言葉”――今おのおのが口にしたもの。ひとつは“働き”――内にて支え、外にて守ること。もうひとつは“笑い”――家の筋肉をほぐす油だ」
その「油」を合図にしたかのように、伊佐が控えからひょいと現れ、盆を持ってつまずきかけ、喜多の扇がすかさず背を小突く。ぱしん、と良い音がして、座に小さな笑いが生まれた。小さな笑いは、大きな綻びを塞ぐ。黒脛巾の若いのが肩をすくめ、留守政景が咳払いに笑いを隠し、定綱は鼻で笑いながらも、その鼻笑いが座の許しの合図になっているのを自覚している。
俺はその波に合わせ、場の底へ声を落とした。
「国分殿の“案じ”は、受け取る。案じは家の盾だ。だが、今日だけは“祝い”で家を包みたい。祝いの最前に立つのは、この家に入ったばかりの者に非ず、古くから柱を磨いてきた者たちだ。叔父上、扇をお下げください。箔は外から貼るより、内から光らせるがよろしい」
政重の扇が静かに落ちた。目はまだ鏃の鋭さを残していたが、矢筒は背へ戻った。愛姫はその一部始終を、怯まず、昂らず、ただ見ていた。床の目の数を、心の底で一つずつ数えるように。俺は横目でそれを見て、胸のどこかに小さな鐘を鳴らした。鳴らさぬ鐘は錆びる。鳴らし過ぎる鐘は耳を痛める。今日の音は、これくらいでよい。
実元がもう一度、柏手を打った。今度は一度だけ。締めの音だ。
「では、“働き”の番を決めよう。留守殿は内の些末、定綱は外の噂、遠藤は道。片倉は――」
「御台所さまの御周り、すべて私が」
小十郎が頭を垂れる。政重のほうへも一礼を忘れない。理の後には礼。礼の後には働き。順序を違えなければ、家は軋まない。
場が動き出し、広間はようやく“披露”から“日常”へ移り始めた。香の筋が細く、しかし確かに立つ。俺は最後に、愛姫のほうへ目をやった。彼女は小さく頷き、視線だけで言った――「柱はここにおります」と。
広間の外で、雪解けの水が軒から落ち、砂利を一粒二粒、静かに打った。柏手の余韻がまだ畳に残っている。祝いの席は、言葉で始まり、働きで続き、笑いで終わる。今日は実元の柏手に救われた。次は俺が、家の音頭を取る番だ。理も礼も笑いも、すべて“道”を太くするために。
「――披露は以上。皆、席を解け」
俺の声が広間の梁へ届き、梁は音もなく頷いた。噂は明日も生まれる。だが、筋を通した今日の一手は、長く残る。国分政重の扇の鳴りも、いつか伊達の節を刻む音へ変わるだろう。柏手の明るさに背を押されながら、俺は胸の中で白水の鐘を小さく一つ、鳴らした。