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『竹の紋を支うる者』

米沢へ向かう道は、まだ冬の名残がしぶとく残っていた。薄氷が車の音に細かく震え、谷風は春を抱えたまま刃の芯を捨てきれずにいる。輿の簾越しに愛姫と目が合うと、彼女はいつものように小さく頷いた。怖さを笑いに変える術を、もう身につけている頷きだ。


「揺れますゆえ、莚を前に――」


伊佐が張り切って道に莚を敷きかけ、喜多に即座に耳を摘まれた。


「道に莚を敷いてどうするのです。埃を連れて歩く気ですか」

「埃はいずれ城外へ……」

「あなたが先に城外です」


くだらないやり取りが、緊張の袖を内側からそっと引く。小夜は沈黙のまま風の向きを読み、簾の結びを一寸締め直した。指が動くたびに、俺の呼吸も整っていく。


米沢城が見え始める頃、空は鉛の蓋をわずかに外し、白が色に変わり出した。父・輝宗の城は、冬の重みを骨の奥で支えたまま春を迎える支度をしている――そんな座り方をしている。鼓が乾いて二つ鳴り、門が開く。御玄関で父がすでに立っていた。目尻にうっすら光がのぼり、唇の端だけが笑う。


広間に進み、式次第どおりに座が整う。上段に父、脇に母・義姫。左右に重臣。俺は一歩進み、両手を畳に置き、深く頭を垂れた。


「恐れながら申し上げます。本日ここに、三春田村清顕殿御息女、愛殿を、伊達家御台所としてお迎え仕り候。政宗、未熟の身にて至らぬこと多く候えども、先祖以来の家法を違えず、家中を労り、領内の民を安んずるため、互いに力を合わせたく存じます。父上・母上におかれては、なにとぞ相違なき御目通りと御指南、御鞭撻を賜りたく、ここに御披露仕る次第にござります」


言い終えて礼を保つ。畳の目が、呼吸ごとに静かに並び直るのが見える。促されて愛姫が一歩進み、慎み深く座して口上を述べた。声は冬の水のように澄み、しかし薄く温みを帯びていた。


「はじめて御目通り仕ります。三春田村清顕が娘、愛と申します。遠路の道、貴家の御迎え、厚くありがたく存じ候。残雪なお深き折、言の葉も凍えつつのつたなき口上、失礼の段お許しくださいませ。今日よりは伊達家御台所として、家の内を慎み守り、内外の節を乱さぬよう務めまする。年若にて至らぬ身、なにとぞ父上様・母上様と仰ぎ、相違なきご指南ご教導のほど、伏してお願い申し上げます」


座の空気が、すっと一段整った。父が頷き、返礼の口上を置く。


「遠路よく参った。ひとかたならぬ悦び、まずはこの輝宗の胸にあり。政宗は道を南へ伸ばすと申す。道は橋を欲し、橋は柱を欲す。御台所として、内の柱をなしてくれよ。家の務めは外ばかりにあらず。内なる和を保つこと、外に勝ること多し。相違なき覚悟、しかと聞き届けた」


父の言葉に、場の温度がほんのわずか和らぐ。その隙を射貫くように、母・義姫が扇を返して口上を重ねた。声音は礼を尽くしつつ、やじりのように鋭い。


「此度の御縁、まずは慶賀の至り。……されど、ひとつ案じることあり。“ひ弱そうな娘”が、果たして伊達の家を支えられますか」


空気が一拍、凍る。黒脛巾の若いのが息を呑み、伊佐の肩がみしりと鳴り、喜多の扇が微かに動いた。俺は半歩、愛姫の前に出ようとして――やめた。ここは彼女の場だ。彼女自身の矢で、彼女の的を貫くべき時。


愛姫は一拍だけ間を置き、掌を畳に正しく置き直して、顔を上げた。


「恐れながら――竹は、しなやかなほど強うございます」


ざわめきが小さく立つ。愛姫は続けた。言葉に余計な飾りはない。


「折れぬために固くならず、風に添うて戻り申す。雪に沈むふりをいたしながら、根の方ではずっと土を掴んで離しませぬ。伊達の家紋の竹に相応しくございますよう、節を刻み、しなやかにして折れぬ柱となる所存。どうか、その節ごとにご指南を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます」


母の扇が半ばで止まり、目がわずか細まる。刃の光から、見極めの光へ。母は扇の端で自らの唇を軽く打ち、静かに応じた。


「竹は節がある。節がなければ、ただの草」


「はい。節を刻む覚悟、相違ございませぬ」


即答。母の目尻が、ほんのわずか、見落とせば見落としてしまうほどに和らいだ。父がそこへ柔く笑いを差し入れる。


「伊達の竹は、節が多いほどよい。よい言葉だ」


左右の重臣の列が、目に見えぬ合図で姿勢を正す。遠藤基信は無意識に膝を深くし、片倉小十郎の目に一分ほど温が差す。大内定綱は鼻で笑いながらも、その笑いに敬意の色を混ぜた。小夜は静かに頷き、伊佐は「竹大将……」と呟いて喜多に脛をはたかれる。場の緊張がほどけ、人の温度が戻ってくる。


式の後、控えで薄茶。父は湯気越しに愛姫を眺め、言葉を選んだ。


「米沢の冬は長い。長い冬には、長い友が要る。政宗は南を見、家中は北を守る。道は橋を欲し、橋は柱を欲すと、さきほど申した。……竹の柱、よい。しなやかで、戻る。戻るところがある柱は強い」


「ありがたき御言葉。戻るべきところを、この家に致します」


短い往復のが心地よい。母は茶碗を置き、今度は礼を欠かさぬ声音で言う。


「風に添うて戻るゆえ、竹は他を強く打つ。打たれて痛む者も出よう」


「その折は、竹の中の水で冷やします」


「ほう」


母の視線が、ふっと俺の片目に移って戻る。矢が矢を認めた時の音が、聞こえぬのに確かにした。母は立ち上がりざま、俺にだけ聞こえるよう囁く。


「片目の君、よく見ておきなさい。竹は折れるより先に軋む。軋みの音が聞こえるうちは、折れない」


「承ります」


母は香の尾だけ残して去った。背の線は矢のように真っ直ぐだが、その矢筒には一本、少し重い矢が戻されずに残ったようにも見える。俺がその重さを知るのは、もう少し先だ。


片倉が低声で寄る。「座外にて“聡明なる姫”と囁き。田村への礼は倍返しにてと」

「よい。こちらは薄く、あちらは厚く。礼は相手の呼吸に合わせよ」

定綱が鼻を鳴らす。「“竹の喩え”は噂に良し。明日には城下の竹藪が数え切れぬほど節を増やすでしょう」

「節は増えてよい。ただ隙間に蛇が棲まぬよう、掃除は抜かるな」

「承知」


庭に出ると、雪の面はまだ硬いが、梅の蕾はこわばりながらも色だけ増していた。愛姫が小さく息を吐く。その白がもう薄い。俺はそっと手を差し出し、短く握った。骨は細いが、骨の中に竹の筋があった。


「見事だった」


「お義母上は矢のような方。矢に当たるより先に、風を読まねばと」


「風は、ここでも海でも同じだ」


「はい。……怖さはありましたが、あの場で“はい”が言えなければ、一生言えなくなると思いました」


「言えた」


「殿が、言わせてくださいました」


言葉は短く、余白が深い。余白の深さが信の深さだ。俺はふと御座の間の床柱に掌を当てた感触を思い出す。柱は揺れぬために叩かれ、戻るためにしなり、強くなるために節を刻む。人も、家も、同じ理。


夕刻、父と廊を歩く。雪解けの滴が敷鴨居の隙からまばらに落ち、細い音で時を刻む。父が空を仰いだ。


「政宗。おまえは南を見る。背は北へ向けておけ」


「最上、蘆名、上杉。肝に銘じます」


「義姫は矢であると同時に盾でもある。矢の音が聞こえるうちは、盾も効く。……愛姫には、竹であれとわしも思う。あの娘は竹になる」


「俺も、そう思います」


父が口の端を少し上げた。「言葉で勝ったな」

「勝ち負けでは」

「無血の勝ちが、一番たまる」


広間へ戻ると、伊佐がまた莚を抱えて仁王立ちしている。「殿、今日の功績、莚にあり」

「なにをした」

「転ばなかった」

「それは功績ではなく日常だ」

喜多が扇で背を叩く。「日常の積み重ねが節になります」

愛姫がくすりと笑い、小夜は風の隙間を半分だけ閉じた。隙を塞ぎすぎれば風は腐る。半分だけ――肝要だ。


その夜、米沢の空は厚い雲を薄く剥ぎ、星を二つだけ見せた。母の矢、父の余白、愛姫の竹。三つのものが家の中で静かに組み合わさっていく。組み目を間違えれば家は軋む。だが、軋みの音は俺たちに聞こえる。聞こえるうちは折れない。


――竹はしなやかなほど強い。

今日の口上は、言葉に見えて、柱の打ち込みだった。明朝、雪はきっと少し柔らかくなる。俺はそう信じ、胸の奥で白水の鐘をひとつだけ鳴らした。




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