『潮目の先で笑うひと』
中村の城に入って七日。御座の間はもうわたくしの息の高さを覚え、夜は畳の草の匂いが胸を敷いてくれる。朝餉の湯気は薄く、白酒の甘さはまだ遠く、障子の外では冬の白さがわずかに薄桃に寄っている。そんな朝、政宗様が何気ない調子で言われた。
「松川浦を見に行こう」
声は軽いのに、片目の奥で光が跳ねるのが見えた。わたくしは頷き、女中たちに支度をさせる。小夜が扇と懐剣の位置を直し、喜多は「海の風は油断めさるな」と髪を一筋固める。伊佐はなぜか莚を抱え、「今日はこれが命綱です」と胸を張っている。莚が命綱、とは妙なことを言う人である。
城を出て南へ。道はやがて湿り、空気は塩を含み、葦の葉の擦れる音に鳥の甲高い声が混じった。鼻の奥がすっと通る。山の匂いではない、川でもない、鼻の奥で広がる“無限”の匂い。わたくしは簾もない駕籠の窓から身を乗り出しそうになり、喜多に裾をつままれて正気に戻る。
最初に見えたのは水ではなく、光だった。田の上に水平な銀が置かれて、それが風でわずかに崩れ、またすぐ整う。やがて松の黒が途切れ、眼前に、広がる。あれが海。わたくしは思わず息を止めた。水の面が空の色を吸い、空が水の呼吸に合わせて動く。山の裾がどこかで終わるのとは違って、終わりが見えない。恐ろしいくらい、自由だ。
「初めて、か」
政宗様の声。わたくしは小さく頷いた。頷いてみて、首の中で何かがほどけた。
「怖い?」
「少し。でも、目が離せません」
「よい怖さだ」
そう言って、政宗様は笑った。片目を細めるその笑い方は、城で見るときより少年めいて、しかし、少年ではとても持ち得ぬ遠さを帯びてもいた。指差す先に、黒く大きな影がある。岸に寄せられた船――安宅船。楼のように高い舷、黒塗りの板、縦横に渡された縄、塩を吸った木の鈍い光。人の造ったものが、海に置いてなお海のものと喧嘩をせずにいる。その大きさに、言葉が遅れた。
「これが、わが浦の大船。織田からの縁で棟梁が来てくれて、形にした」
政宗様が触ると、木は低く鳴いた。その音に、わたくしの胸の奥でも何かが応じる。安宅船の隣には、先に仕上がった小早船がいくつも横たわり、棟梁たちが墨縄を鳴らし、槌の音が潮に混じる。片倉小十郎がこちらへ来て、深く頭を下げる。あいさつを返している間にも、ピッチの匂い、乾いた藁の匂い、濡れた綱の匂いが層になって寄ってくる。
「海は道だ」と、政宗様が言った。「川のように一筋ではない。風と潮で道が増えたり減ったりする。だが、だからこそ先に覚えた者の勝ちだ。ここから南へは小田原。鹿島灘を下り、良い日和なら二日で着く。西へ曲がれば熱田――織田の港。馬を積めば、奥の良馬をたやすく京へ運べる。魚と塩と海苔と、こちらからは木と鉄と布。北へは気仙沼、さらに北前の道が開けば、越後や能登とも結べる。……風で、国は近くなる」
言葉が潮と一緒に来て、耳の膜を押し、脳の奥に冷たく染みた。政宗様は身振りも大きくない。声も張らない。ただ、見ているものがはっきりしていて、そのはっきりをわたくしにも同じはっきりで見せてくれる。片目の君の目は、潮の筋を追う。地図の墨ではなく、風の線で道を描いているのだ。
「船の腹は太い方がよい時もあれば、痩せていた方がよい時もある。波の上は“間”がすべてだ。間を外すと、どんなに丈夫でもひっくり返る。……家も同じだ」
「家も、間」
「うん。外の石は軽く、内の柱は重く。中村は橋だ。いつか常陸に心臓を置く。その時、橋の上で人が笑いながら渡れるようにしておく。橋を守るのは、柱だ」
御座の間の床柱の手触りが掌に蘇る。わたくしは頷いた。船の腹、風の間、家の柱。ばらばらな言葉が、潮でひとつになる感覚。政宗様の説明は理で来て、情で結ぶ。だから楽しい。いつまでも聞いていたくなる。潮風が冷たいのに、身体の中で灯が一つずつ点いていく。
「殿、足元!」
喜多の声に我に返ると、いつの間にか安宅船の傍らまで出ていた。海は近い。板と板の隙間から光が揺れ、濡れた綱が靴にころんと触る。伊佐がすかさず莚を広げ、「ここは“莚侍大将”の出番」と胸を張った。喜多が即座に扇で叩く。「大将は黙って敷きなさい」。小さな笑いが波の音に溶けた。黒脛巾が漁師に化けて網を担ぎ、棟梁が鼻歌混じりに釘を咥える。柔らかい喧噪。戦の喧噪とは違う、増えても減っても困らない音だ。
「船に、乗ってみられるか」
政宗様の問い。足が半歩引いたのを、自分で笑う。怖さは残るが、怖さの形はもう変わっている。未知の黒ではなく、透き通った青だ。
「はい。……ただ、揺れたら笑わないでくださいませ」
「笑わぬ。笑うのは伊佐だ」
「笑いません、殿。俺、莚持ってますから」
しれっと言う顔が可笑しくて、つい笑ってしまう。板の梯子を上がる。足が海の重さを知る。板目は潮を飲み込んでしっとりとし、船体は風の呼吸に合わせてゆっくりと吐いて吸う。船の腹に、世界の鼓動がある。わたくしの足も、いつの間にかその鼓動に合っていた。
甲板の上、棟梁がぺこりと頭を下げた。「姫様、足を取られませんように。板は海松、潮を飲んで暴れません」。政宗様が嬉しそうに棟梁の言葉を受け、「ここの棟梁は言うことがいつも気持ちよい」と笑う。気持ちよい言葉は、気持ちよい仕事から出る。そういう仕事が、ここには集まっている。
「この船に、いつか――」と政宗様が空を仰ぐ。「松川浦から小田原へ、熱田へ。その先に西国の空。天下がどうこうではない。争いのない道に、人の荷と笑いを流したい。重いものは海に任せれば、人の肩はもっと軽くなる」
わたくしは黙って聞いていた。言葉のどこにも大声はないのに、ひとつひとつの音が胸に落ちていく。眼帯の下にあるものを知ろうとするより、眼帯の外にある声を受け取る方が、今日のわたくしには正しい。片目の君は、見栄ではなく見切りで未来を語る。だから信じられる。信じたくなる。
「……殿」
「うん」
「この浦を、女の働きの場にもしてくださいませ。簪を作る手、糸を撚る手、網を繕う手、そういう手が潮風で荒れないよう、湯と薬、炊ぎ場と祈りの場を一緒に」
「そうだな」
即座に返る。「白水に薬湯を設けよう。舟唄の稽古もさせたい。歌があると、疲れは軽くなる」
「歌は必要な音ですから」
目が合って、ふたりで笑った。必要な音。鐘の音、槌の音、湯の音、子の笑い。剣の鳴りもいずれ混じるだろうが、剣だけで満たさない家を、わたくしたちは選んだのだ。
「南へ行く日、私は――」
「一緒に来てくれ」
言い切る前に、政宗様はわたくしの言葉を受け取り、先に並べてくれた。はい、と言うより早く頷いていた。頷きの速さは、怖さの残りを消す。板の下で海が大きく息をする。恐ろしい、でも、嬉しい。怖さと嬉しさが同居して、胸が忙しい。
「姫様、お加減は?」
小夜がそっと寄った。船の端に近づきすぎないように、影のように立つ。頬の白い線は、潮風でさらに薄く見える。彼女の立つ場所が、船の重心を安定させる。そういう人だ。
「大丈夫。……少しだけ、揺れが心に残っただけ」
「その揺れは、すぐ柱に吸われます」
小夜の言い方は、いつも怖さを減らす。柱。御座の間の柱に掌を当てた感触が、海の上でも確かに続いている。
甲板から降りる頃、陽は傾き、海の面に長い道ができていた。道は水で、しかし、水は道だ。行き先が一つでない道。風の間で増えたり減ったりする道。松川浦の入口で波が砕け、その白が笑い声のように散った。
「姫様、これを」
棟梁が小さな木片を差し出した。船板を削った端材。指先に当てると、潮と樹の匂いがした。
「お守りに。潮が荒くても、木は沈まないように出来てます」
「ありがとう」
懐にしまうと、身体の芯がすこし軽くなった。政宗様が横で「よい土産だ」と言い、子供のように頷く。片目の君のこういう顔を、わたくしは好きだ。海で見る笑いは、城で見る笑いと違う。少し自由で、少し無鉄砲で、しかし根が深い。根が深いから、風でも抜けない。
浦を離れる前、政宗様はもう一度だけ海を見た。風の切れ目を目で追い、潮の筋を耳で聞き、空の色を頬で測る。片目の君は、たぶん一生こうして風を読むのだろう。その背を見ながら、わたくしは思った。わたくしの役目は、この背を温め、時に背から風を読み、背が疲れたら背を壁にすること。花ではなく、柱として。
帰り道、伊佐が莚を肩に担いでふらふら歩き、「大将、役目を果たしました」と得意顔。喜多が「あなたの役目は転ばないことです」と扇で突き、小夜は小さく笑った。黒脛巾が影で頷き、片倉が馬上で紙を巻き、棟梁の鼻歌が風に流れる。必要な音で、道は満ちていた。
城が見えた時、わたくしは胸の中で小さく鐘を鳴らした。海の匂いがまだ髪に残り、掌の木片が熱を帯びている。政宗様の声は潮と一緒に耳に残り、目の前には常陸へ伸びる見えない道が確かにあった。
――聞き入っていた。あの人の言葉に、目に、風の読み方に。怖さは消えず、しかし怖さは味になり、味は力になる。次に海を見たとき、わたくしは少しだけ、今日よりも前へ出られるだろう。片目の君の横で、同じ潮目を見ながら。