『簾の内に鳴る鐘、片目の君』
三春を発つ朝は、思いのほか静かだった。庭の砂利は薄く凍り、梅の蕾はまだ堅く口を結んでいるのに、空のどこかで小さく春が鳴っている。父上は短く、「道で恥をかくな」とだけ言った。泣くほど長い言葉よりも、行李の紐を一つ締め直すような一言のほうが、こういう朝にはよく効く。わたくしはうなずき、簪の具合を確かめ、輿に乗り込んだ。
城門の外、人垣の端に子らがいた。指を折って輿の数を数えている。「ひい、ふう、みい」。わたくしの簾に梅の細枝がそっと添えられ、女中の一人が小声で「凍みませんように」と息をかけた。道の最初の石に車が乗った時、輿がわずかに鳴り、腹の底のどこかで同じ音が返った。緊張はいつも、初めの一鳴りが可笑しい。鳴ってしまえば、あとは続き。
最初の峠手前で、迎えの旗が風を切る音がした。進み出たのは遠藤基信と名乗る男、鎧は光りすぎず、声は遠すぎず。「伊達に嫁ぐ道は、伊達が守る」と、少しも張り上げずに言った言葉が、雪の野で不思議と遠くまで届いた。隊の整え方がきれいで、槍の穂は布で包み、弓の弦は少し緩め、馬の口は高くしない。道で威を張らぬことが、いちばんの威なのだと、見ればわかる。
峠では風がきつかった。輿の簾が持ち上がり、髪がほどけそうになるたび、後列の女中が風除けの幕をするりと差し出す。遠藤は歩調を少し落とし、旗を半寸下げた。合図は最小、動きは最大。山の向こうから、噂が先に走ってきた。「伊達は道で人を傷つけぬ」。知らぬうちに、わたくしの背すじが少し伸びていた。
白水阿弥陀堂に近づいた時、谷を渡る鐘の音が二度、厚く鳴った。簾の影でも、音の厚みはわかる。虎哉という和尚の名は聞いていたが、会わずとも、鐘がその人の背丈を教える。祓いの紙が空気を撫で、榊がささやく。輿を止めて、わたくしは小声で願いを言った。花でなく柱に、と。願いは誰に向かってなのだろう。神さまか、父上か、これから会うひとへか。それとも、自分自身にか。
昼餉は、薄い白酒に温かい粥。餅を湯で溶いたものが香りだけ優しく、喉の奥を温めた。女中たちは皆、小声で笑う。「餅は喉につくから」と言いながら、箸は止まらない。わたくしの耳には、遠藤の隊の足音が心地よかった。戦の音を消して、護る音だけを残す歩き方。そういう歩幅で家が続いていくのなら、嫁いでよかったと思える気がした。
道々、黒い脚絆の者たちが影のように動くのが見えた。あれが黒脛巾組というのだろう。女中の一人が怖がって袖を握ったから、わたくしは笑って囁いた。「あれは目立たぬようにするのが仕事。見えてしまったのなら、きっとわたくしたちへの挨拶です」。考えて言ったわけではない。だが、わたくし自身、挨拶を受け取ったような気持ちがした。
白水を発つ刻、鐘がもう一度だけ薄く鳴った。遠藤が旗を半歩上げ、行列は再び海の匂いのする風の方へ向かった。川の水は鉛色、空は薄青、雪は白い顔の下にうっすらと春の血が通っている。あの血は、どこへ向かうのだろう。常陸の海か、京の空か。それを決めるのは、これから会う人と、わたくしの「はい」の重さだ。
道中、女中たちは噂話をひとしきり。中村の城には、柱が立ったという。名を「御座の間」と言い、床柱は松、床框には桜皮を一筋、襖は薄桃の更紗。聞くだけで、まだ見ぬ部屋の匂いがした。柱は家の骨であり、花は家の息。わたくしがそこへ入るということは、香りを増す役ではなく、骨に重みを足す役を担うということ。心にそう言い聞かせると、背筋の強張りは、不安ではなく準備の痛みに変わった。
……そして、門。中村の城の石は、奥州の石の顔をしていた。冷たいが、触れれば座りがよい。門前に膝を折る人影が、一つ。わたくしは簾の陰から、その影の輪郭が揺がぬのを見た。ああ、この人は風で姿勢を変えない、と直感する。名を名乗る声は、無理に低くせず、しかし高くもない。「伊達政宗、ここにお迎え仕る」。遠藤が「道、澄み切っておりました」と添える。ふと、胸が静かになった。
簾が上がる。はじめに見えたのは、片側の眼帯。黒ではなく、布の重なりが丁寧で、飾りはない。そこに装いの意図がなく、ただ一つの事実として在った。驚きは――なかった、と言えば嘘になる。けれど、怯みもなかった。片方だけの目は、もう片方の目よりよく風を見る。そう直感した。目は二つあるから広く見るのだと思っていたが、広さは数ではない。彼の片目は、風の筋だけを正確に捉えようとしている目だった。
眼帯の下を見ようとも思わなかった。そこに戦や病や子の日の涙があることは、知識としては知っている。けれど、いまこの時、わたくしが見たいのは、隠された過去ではなく、隠されずに差し出された現在だ。眼帯が旗でなくて何だろう。家の、己の、生の。そこに嘘がない。だから、見えない方は見ないでいい。見える方を信じる。
政宗様は、その片目でわたくしを真っ直ぐに見た。真っ直ぐに見られると、真っ直ぐにならざるを得ない。膝の下で畳の目が静かに並び、指先が汗で冷たくなる。声が出る時、驚くほど澄んでいた。「長き道の守り、ありがたく存じまする」。自分の声が自分のものに聞こえて、ホッとする。簾の外で、小さな笑いが波のように立っては消えた。城は息をしている。
御座の間は、噂の通りだった。松の床柱は年輪をむき出しにして堂々と立ち、床框の細い桜皮が春の影を引いている。畳は柔らかく、浅葱の縁が薄桃に似合う。初めて足を入れたのに、昔から息をしていた部屋のように感じた。そこにわたくしの心が吸い込まれ、膝が自然に落ち着く。人は場所に迎えられることがある。今日、わたくしは部屋に迎えられた。
起請の文に筆を置く時、先ほどの片目を思い出した。書くべき言葉は決まっている。正室の子を嫡とし、側室を隠さず、家を騙らず、民を急がせず。筆先がわずかに震えたが、文字は座った。政宗様の筆は、冬の水のように澄んでいた。淡々と重い。重さが淡々を邪魔しないのは、どれほど稽古をしたのだろう。眼帯の布目の誠実さと、筆画の誠実さが、どこかで響き合っている。
盃を交わす時、白酒の甘さの奥に少し辛みがあった。「温かい」と思わず言えば、「寒い年ほど、桃は甘くなるとか」と返る。そこで「なら、よい家に」と続けられる余白を残してくれる。こういう会話の歩幅が、ひとの一生を決める。長い坂を並んで登る時に、互いの息が苦しくならないかどうか。それだけでいいのだと、今は思える。
政宗様は、わたくしの目を正面から受け止めてから、静かに告げた。小夜と伊佐を側に置くことを、隠さぬと。三春を発つ前、父上と交わした話が、胸の奥で再び温かくなった。正室の務めは、花のように笑うことだけではない。柱の前で梁が音を立てぬように、梁に油を差し、貫に楔を打つことでもある。「承知いたします」と言うまで、一拍、間を置いた。間は、逃げではない。重さを均すための呼吸だ。
「ただ、柱の前では梁が音を立てぬよう、どうか」と言うと、政宗様は「必要な音だけを」と答えた。必要な音。白水の鐘、遠藤の旗、女中の草履、台所の湯気、そして、城下の子の笑い。必要な音が多い家は、たぶんよい家だ。そこに剣の鳴りも混じるだろうが、剣だけが鳴らないなら、それでいい。
濡れ縁に出る。三歩で外へ。海松の板目は潮の道理を覚えていて、春の風が板の上で寝返る。わたくしは簾の影を離れ、光に立つ。眼帯の君は、わたくしの足音が板に触れる前に、風の向きで振り返る。片目は、やはり風をよく読む。彼は南を見ると言う。常陸へ、と。わたくしは即座に「ご一緒に」と言うつもりだったが、声より先に笑いが出た。「では、莚はわたくしが」と。すぐ「莚は大将の職務だ」と返ってきて、背後で誰かが盛大にむせた。扇で叩かれる音がして、部屋の空気がいっそう温かくなる。こういう笑いは、家の筋肉になる。
夜、灯が落ち、部屋の影が深くなると、床柱の側で耳を澄ませた。柱の中には音がたくさんいる。木を叩いた音、運ばれた音、削られた音、据えられた音、そして、これから寄りかかる音。わたくしは柱に掌を当て、今日一日の音をそこに押し入れた。道の雪の軋み、鐘の厚み、旗の縫い目、女中のくしゃみ、遠藤の「澄み切っておりました」、政宗様の「ここにお迎え仕る」、そして――眼帯の布の静寂。
驚きはあった。でも、恐れはなかった。眼帯は隠すための布ではなく、示すための布だ。人は隠すところで信じられるのではない。示すところで信じられる。片目の君は、見えないものに頼らず、見えるものを研ぎ澄ました。風、間、匂い、眼差し、言葉の余白。そういうもので家を建てるのだと、わたくしは理解しはじめている。
明日は、桃の節句に向けての最終の支度が続く。城下で酒は薄く、笑いは厚く、と触れが回るだろう。餅は粥に溶け、子は莚の上で跳ね、黒脛巾は影でうなずき、女中たちは簪の数を唱える。政宗様は地図を見、父上は米沢で風を測り、母上はどこかで矢の音を確かめているかもしれない。わたくしはここで、柱に寄る。柱は揺れぬ、けれど、揺れに強い。
簾の内で、胸の鐘をそっと鳴らした。小さく、一度。聞こえなくてもいい。鳴らすことが大事だ。片目の君がその音を風で感じ取るのなら、なおよい。わたくしの「はい」は、今日からこの家の音になる。花ではなく、柱として。