『簾の向こうの柱』
門前で風の向きがふっと変わった。北から東へわずかに寄り、簾の房が軽く揺れる。遠藤の隊列がほどけて、迎えの旗が一歩退き、輿が正面に据わった。俺は膝を折り、手をつく場所を確かめる。御前試合でも軍議でもない。だが、この一礼ほど、家の未来に長く残る礼はない。
「――田村の御息女、愛殿。伊達政宗、ここにお迎え仕る」
簾の内から、細い、しかし確かな声が返る。
「長き道の守り、ありがたく存じまする」
声の底に揺れがない。雪の重みを知っている声だ、と思った。遠藤が半歩前へ出て、短く告げる。
「道、澄み切っておりました」
俺は頷き、目だけで礼を返す。小夜が旗の角度を一寸改め、伊佐が後列の結びを締め直す。喜多は女中衆の様子を射抜くように見渡し、片倉は城下の人垣の動きを風のように読んでいる。黒脛巾の薄い影は、塀際の陰に溶けて、ただ気配だけを置いた。
行列は音を立てずに城内へ入る。門と塀の間の狭い空が、今日だけは広く見えた。門の礎石が冷えて、足裏に硬い冬が伝わる。俺は輿の前に出て、手で道を示す。導くとは、選び直すことだ。毎歩、いまの最善を選ぶ。その繰り返しが、家の形になる。
**
白水阿弥陀堂の鐘が、遠くで二度、厚く鳴った。庭の松がその音をわずかに震えで返す。御座の間の手前で一旦歩を止め、祓いの小座敷を通す。虎哉和尚は来ない。だが、和尚の数珠の音は、白い紙垂と榊の葉のきしみに紛れている。俺は榊の葉を指で撫で、祓いの紙が空気を切る音に耳を澄ませた。
御座の間。障子越しの光が薄桃を含み、床柱の松が静かにそこに在る。喜多が扇を返し、「どうぞ」と一言。清らかという言葉が、安直でなく感じられる数少ない場のひとつだ。
輿が止まり、簾が半ばまで上がる。先に現れたのは白い手。爪に色は薄く、しかし節は凛としている。次に、浅葱を含んだ小袖の袖口。目がのぼらぬように、床の目に視線を置く――が、視線は勝手に上がる。簾が完全に上がり、愛姫が一歩、部屋に入った。
若い。だが、若さを甘くさせない筋がある。眉は細すぎず、視線は真っ直ぐ、頬は冬の色から春の粉へ移る途中にいて、口元は柔らかいのに、言葉の刃を隠す余裕がある。俺の胸の中で、小さな鐘がひとつ鳴った。
「ようこそ」
自分の声が静かに出る。愛姫は膝を折り、深く頭を垂れた。
「お世話になります。未熟者にて、どうぞお導きくださいませ」
導く――のではなく、支えるのだ、と心で言い換える。俺は脇に控えた片倉に目をやり、所作に移る合図をした。
結びの起請文。白水の鐘の前で一度交わした誓いを、ここで改めて文に落とす。『正室の御子を嫡とする』『側室を持つことを隠さぬ』『家を騙らぬ』『民を急がせぬ』。筆を取る指に、冬の冷えが少し残っている。愛姫も筆を取り、その手はわずかに震えたが、書き上がった文字は、静かに座った。字は性だ。良い字だ。
盃事は、三々九度の作法ではなく、上巳の式に倣い桃花酒を交わす。濁りの白が盃にひとすじ揺れ、桃の枝が影を落とす。愛姫が盃を少し傾け、俺も続く。口に含むと、白酒の甘さの奥に淡い辛みがあり、それが喉に落ちる頃、庭の風が薄く抜けた。
「……温かい」
思わず口に出た俺の言葉に、愛姫が目を細める。
「はい。寒い年ほど、桃は甘くなるとか」
「なら、よい年だ」
「なら、よい家に」
短い言葉の往復に、余白がたっぷりある。余白の深さは、そのまま信の深さだと思う。小十郎が目を伏せ、定綱が鼻で笑い、喜多が小さく頷いたのが視界の端に入った。
「愛殿」
式の間を切らぬよう、俺は声を落とした。
「以前に伝えたこと、改めてこの場で。小夜、伊佐を側に置く。それを隠さぬ。――承知、くださるか」
場の空気が、薄く緊張して鳴る。愛姫は俺をまっすぐ見た。逃げない目だ。やがてゆっくりと頷く。
「承知いたします。私が柱の一本であるなら、梁や貫や楔も必要にございます。ただ、柱の前では、梁が音を立てぬよう、どうか」
「音は立てさせぬ。必要な音だけを」
「ならば」
言い切ってから、愛姫の口元がほんのわずかに緩んだ。
「――莚侍大将には、柱の泥を払っていただきましょう」
伊佐が見事にむせ、喜多が扇で背をさする。座に柔らかい笑いが走った。愛姫は、すでに城の空気を掴んでいる。噂は早い。いや、簾の向こうにも風は通っていたのだろう。
儀の次第を終え、御座の間の床の間に、桃の枝を一本だけ挿す。余計な花は要らない。枝の影が襖に伸び、日が動くたびに影の形が変わる。変わるものの中に、変えないものを置く。床柱の松は、ただそこにあり、部屋全体の息を整えている。
「……お疲れでしょう」
そう言うと、愛姫は首を振った。
「道が良うございました。『伊達は道で人を傷つけぬ』と、道中で誰もが申しておりました」
遠藤の旗が、また風を切る音がした気がした。俺はうなずき、庭口の濡れ縁へ誘う。御座の間の外へ三歩。風はまだ冷たいが、刃の冷たさではない。愛姫は簾の影を離れ、光の中に立つ。頬の色が、桃ではなく、ほんの少しだけ梅に近づいた。
「ここが、あなた様のおっしゃる“柱の場所”ですね」
愛姫の視線が床柱を撫で、濡れ縁の板目を数える。板は海松。潮の道理で選んだ板だ。彼女の足運びは軽いが、軽さの意味を知っている軽さだ。
「あなた様は南を向いておられる、と聞きました」
「誰が?」
「お母上」
不意に義姫の矢の音が耳奥で鳴った。愛姫はその音まで織り込んで、微笑む。
「南へ行く日、私は――」
「一緒に行く」
遮ると、愛姫は驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「では、私も莚を持ちましょう」
「莚は大将の職務だ」
「では、私は柱で」
言葉の置き所が、やはりいい。俺は頷き、息を整えた。
「愛殿。ここは一時の城だ。外の石は軽く、内の柱は重く。常陸に、いずれは移る」
「承知いたしました」
即答。恐れは見えない。代わりに、静かな準備の光が見える。彼女はその目のまま、庭の梅を見た。
「梅は、桃の前に香ります。桃が香る頃には、梅は影となって支えます」
「俺は、梅を忘れない」
短い誓い。短いが、重い。愛姫は深く頭を下げた。髪の簪がわずかに鳴り、その音が御座の間全体の息と合った。
**
夕刻、城下でささやかな饗が催された。酒は薄く、笑いは厚く。餅は湯で溶き、粥に散らした。伊佐が「餅はどこまでも俺から離れていく」と嘆き、喜多が「あなたが餅から離れなさい」と叱る。黒脛巾の若いのが子どもに縄の結び方を教え、小夜は女中衆に扇の持ち方を静かに示す。片倉は町年寄と話し、定綱は外様の視線の流れを見ている。どれも、戦ではない。だが、戦よりも難しい。
「殿」
遠藤が膝をついた。「輿の車、一本、明日替えます。軋みが出ました」
「よく見た。替えてしまえ。音は必要な音だけでいい」
「御意」
遠藤は去り際に、ほんの少しだけ笑った。その笑いは、飯坂の湯の温度に似ていた。
夜、御座の間に灯を落とした。床柱の影が深くなり、桃の枝の影が襖に長く伸びた。愛姫は奥へ下がり、女中衆の低い声が遠くで行き来する。外では風が東へ寄り、どこかで犬が一声だけ吠えた。
俺はひとり、床柱に掌を添えた。冷たさの奥に、今日の音が幾層にも重なっている。鐘の音、雪の軋み、簾の揺れ、白酒の盃のわずかな触れ、伊佐のむせ、喜多の扇、小夜の足音、遠藤の「澄み切っておりました」、片倉の紙の擦れ、大内の鼻で笑う音、そして――愛姫の「承知いたします」。
迎えるとは、守ること。守るとは、道をつくること。
今日、俺はまた一本、南へ伸びる縄を太くした。外の石は軽く、内の柱は重く。中村は橋だ。橋の上で、人は行き交い、笑い、噂し、祈る。橋は揺れる。揺れる橋は、強い。揺れを嫌わず、揺れで支える。
桃の節句まで、あとわずか。俺は掌を離し、深く息を吐いた。胸の中の鐘は、静かに、しかし確かに鳴っていた。次に鳴る時、その音はこの家の者すべての足並みに、ぴたりと合うだろう――そう思えた。