『迎えの槍、桃の行列』
二月の末、屋根の庇からするすると氷柱が痩せ、滴が石畳に同じ場所を叩いて小さな穴を作っていた。雪はまだ白いが、踏めば内側で春が鳴る。中村城の台所は餅を蒸さず(喜多の厳命で“湯で溶く”方へ改宗した)、代わりに昆布と梅の匂いが、ひやりとした廊に淡く漂っている。
飛脚が駆けこんだ。三春よりの一書。印は鮮やか、筆は強い。
――愛姫、桃の節句に向けて本日出立。先駆けの女中衆、輿の守り、道々の祓い、すべて手配済み――
文を読み切る前に胸の奥が一拍強く跳ねた。決めた日が、紙の上の言葉から、道の上の足音に変わる。その響きに、中村は一瞬、呼吸を合わせる。
「評定を」
片倉小十郎、大内定綱、喜多、小夜、伊佐、黒脛巾の頭が集う。図はすでに机に広げてあった。三春から山裾をなぞり、川を渡り、白水の手前で一泊。翌朝に松川浦へ流れを見せ、それから中村へ――儀の形と安全の最短を両立させた道だ。
「迎えの大将は……遠藤」
俺が名を置くと、定綱が目を細め、「湯治明けで肩も軽い」と口角を上げた。飯坂の湯が遠藤基信の古傷をほぐしてくれた。深追いをせず引くべき時に引ける男。婚の迎えに、剛勇だけでは足りぬ。たわみと、見切りが要る。
「殿」
呼べば、すぐ来た。いつも通りの、きちんとした膝の折り方で座る。
「遠藤、兵を率い、迎えの先鋒を務めよ。槍は見せず、威は見せよ。誉れは譲れ、道は譲るな」
「拝命つかまつる」
短い眼差しの中に、戦場で見せる光が半分、家の柱を支える光が半分、混じっていた。
「道中は二泊一行。白水にて一泊、虎哉和尚に祓いを願え。狼煙は勿来・夜ノ森・平城の三つを繋ぐ。黒脛巾は一里先行、川筋と橋桁を見よ。噂は『伊達は道で人を傷つけぬ』で統一、酒と握り飯は我らが出す」
「御意」
喜多が横から紙束を出す。「持ち出しの品、目録はこの通り。白粉は凍らぬよう懐で、簪は数を唱えながら。長持ちの紐は新しいものに替えておきました」
「長持ちは軽いものから前へ」と伊佐が口を挟む。「重いのを先にして後ろが遅れると、隊が蛇みたいになる」
「蛇でもよろしいけれど、あなたは尻尾を持たないこと」と喜多。小さな笑いが座に浮かんで、すぐに消えた。緩みは油、油は火に近いほど薄く塗る。
小夜は地図を眺め、指で谷をなぞる。「峠の手前、風が巻きます。輿の簾が揺れすぎぬよう、風除けの幕を用意した方がいい」
「用意させる」
片倉が筆を走らせる。「白水の鐘は二打、出立の刻に。鐘の音は噂に勝ります」
定綱が鼻で笑う。「勝った噂しか残らぬのが噂。鐘で勝ちにしてしまえばよい」
細かな手が次々に挙がり、編みひもが太くなる。やがて皆が去り、静かな廊に風の音が戻ってきたとき、俺はひとり文机に向かい、父へ短い書状をしたためた。――三春より出立。遠藤迎え。鐘二打。道、無事に繋ぎ候――
**
迎えの朝、城門前に遠藤の隊が整列した。兵は百五十。槍は布で包み、弓は弦をゆるめる。旗は二つ、家の紋と、白水を表す白旗。黒脛巾はふつうの足軽の顔に紛れて縁の下に潜る。
「遠藤」
「はっ」
「これは戦ではない。だが、戦よりも敵が多い。寒さ、泥、噂、嫉妬、うっかり、見栄。槍の穂先が届かぬ敵ばかりだ」
遠藤は口の端を固くして頷いた。「槍を磨くより、靴を磨いて参ります」
「それでよい。――帰りの列に、俺の名声はいらぬ。愛姫の輿に風一つ触れさせるな」
「御意」
馬が嘶き、蹄が霜を割った。遠藤は一度だけ振り返り、眼で礼をした。俺も頷き、拳を胸に当てる。信号のように、小夜が旗を一寸上げ、伊佐が最後尾の結びを確かめ、喜多が袋の紐を引き締め、片倉が紙束を渡し、定綱が風を嗅いだ。
「出立!」
声は高くない。しかし高くないものほど、長く残る。列が門を抜ける。浅葱の縁が朝日で白く光り、雪が靴裏で音を立てた。
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その刻、三春では――と、想像ではない。飛脚が途中で拾った報せを、俺は頭の中で絵に直した。
城下の両側に布が張られ、梅の小枝が輿の簾にそっと添えられる。田村清顕が裃の裾を押さえ、娘の乗る輿の前に立って、簡素に、しかし丁寧に頭を垂れる。女中衆は笑みをひそめ、若い侍は肩に力が入るのを隠して歩幅を合わせる。行列の端に幼子がいて、指で輿を数える。ひい、ふう、みい――桃の節句の桃色は、まだ空にはない。だが、ひとの頬にはある。
遠藤の隊は白水の手前で列を組み換え、鐘の音が谷に落ちるのを合図に、先導の位置へ滑り込む。虎哉和尚は数珠を鳴らし、「結びは静かに」とだけ言って横を向く。その横顔の皺に、山中の風の筋が刻まれているのを、俺はよく知っている。
「伊達に嫁ぐ道は、伊達が守る」
遠藤の声が、鐘と一緒に空へ昇った。
**
中村では、御座の間の最終の埃を払った。喜多が目を細め、畳の目を一筋たどって「良し」と呟く。黒脛巾は庭石の裏に道標を隠し、夜のための小さな灯を置く。片倉は町々へ触れを回す。「酒は薄く、笑いは厚く。路の真ん中で立ち止まらぬ」
伊佐は門のところで莚を直しながら、「殿、長持ち一個くらい俺が持って入っても」と言い、喜多に扇で二度叩かれた。「あなたは莚侍大将でしょう」「役職、採用してたんですね」「してません」
小夜は矢数を数え、今度は弓ではなく、扇と懐剣の位置を確かめる。頬の白い線は、冬の終わりの雲のように薄くなった。目は柔らかいが、芯は固い。俺は小さく頷く。彼女もまた“迎えの槍”だ。刃を見せぬ槍。
昼を少し過ぎた刻、白水の方向から鐘の音が二度届いた。音の厚みで距離を測る。近い。胸の中の誰かが、鎧を一段締め直す。
「殿」
片倉が低く言う。「遠藤より使い。白水発ち、中村へ向けて順調」
「よし」
俺は御座の間の柱に掌を当て、息を一度深く吐いた。柱は冷たい。だが冷たさの奥で、家の血が流れているのがわかる。俺の手の温度が、その流れに少しだけ混ざる。
城門のほうへ足を向ける途中、白水阿弥陀堂に寄った。和尚は縁で空を見ていた。
「師よ。鐘の音、受けました」
「鐘は鳴らすまでもなく鳴っておる。おぬしの胸で」
「……静かに鳴るよう、気をつけます」
「静かに鳴らせ。大きく響かせるのは周りの務めだ」
短い会話。短いが、骨組みになる言葉。頭を垂れ、すぐに城へ戻る。
**
夕刻、城下の遠くに白い列が現れた。雪の上の絹の線が、息を合わせるように揺れる。遠藤の先導旗が風を切り、黒脛巾の薄い影が人の背中に溶ける。城下の人々は声をあげすぎず、しかし笑いを隠しきれず、道の端で小さく手を振る。噂はもう回っている。「伊達は道で人を傷つけぬ」。その噂が、今日の道をさらに柔らかくする。
城門前。俺は一歩出て、膝を折る場所を確かめる。御前試合でも戦場でもない。だが、これほど手の置き所に気を使う場は他にない。
輿が近づく。簾の向こうは見えない。見えないが、確かにいる。花ではなく、柱。俺の言葉が、いよいよ現実に試される。
遠藤が馬を下り、こちらへ進み出た。鎧の金具がわずかに鳴り、その音が距離を告げる。
「殿。道、澄み切っておりました」
「よくやった」
短い言葉の中に、三春の坂の雪、白水の鐘の音、谷の風、町の笑いが、薄く、しかし確かに重なっている。遠藤の肩は湯治の後のように軽く、目は戦の前のように深い。
俺は深く息を吸い、声を整えた。迎えの言葉は、武家の作法書にいくらも載っている。だが、書にはない声が要る。ここから先の家の温度を、最初に決める声だ。
――その声を出す前、ふと、御座の間の畳の匂いが鼻の奥で立った。草と木と、春の粉。俺は微かに笑い、胸の中の鐘を静かに鳴らした。
迎えるとは、守ること。守るとは、道をつくること。
今日、俺は“道で戦い”、勝った。刃は抜かず、血も流さず、ただ人と人の間に風を通した。それで十分だ。いや、それこそが難しい。
風は、北から東へ寄れている。桃の節句まで、あと少し。俺は手を伸ばし、未来の柱に添えるべき場所を、正確に探した。