『くノ一訓練始動──物陰の影、笑う者あり』
冬の風が、まだ少しだけ肌を刺す。
けれど、縁側に座る俺の頬は、じわりと熱を帯びていた。
それも無理はない。
目の前で、黒装束のくノ一たちが、舞うように剣を振っていたのだから。
「いち、に、さーんっ!」
かけ声も軽やかに跳ねるのは、黒脛巾組から新たに配されたふたりのくノ一――つばきと黒羽だ。
俺の護衛兼、訓練相手……という建前の、眼福の舞台である。
つばきは明るく快活で、声も仕草も陽だまりのよう。
黒羽は小柄で無口だが、ちらちらと俺を見る目に“何か”を含んでいる。
言葉には出さないが、「あの目」は年上の雌獣の視線だ。いや、俺はまだ五歳なのだが。
(ちくしょう……前世の知識がなければ、これの意味すら分からなかったぞ……!)
「はいっ、次いきますっ。笑顔でかわし斬り、参りますっ!」
「……くノ一の訓練って、こんなに……こう、和やかなもんだったのか……」
俺はぽつりとつぶやきながら、視線を逸らすふりをして、しっかり見ていた。
つばきが扇子を開き、くるりと一回転。黒羽がその背後から一閃の構え。
だがつばきは半歩引いて受け流す。
「ほら、敵の視線を引いて、力ませずに封じる。柔よく剛を制す、なのですっ」
いや、それ「笑顔で誘惑してから斬る」じゃないのか? と思いながらも、俺の頬は緩みっぱなしだった。
黒装束であるにもかかわらず、布の薄さが絶妙なのは、武具の設計上の都合か?
いいや、そうあってほしいと願う俺の祈りか。
「では、次は“間合いの詰め方”訓練、梵天丸さまもどうぞ~♪」
「ひゃ、つば、あはっ……く、くすぐったいっ!」
いきなり背後から抱きつかれ、俺は笑い声を漏らしてしまった。
しかし、そんな油断も即座に戒められることとなる。
「……楽しゅうございますか?」
背後から、氷柱のような声音。
喜多が蜜柑の籠を手に現れた。
その視線は、果実より冷たく、鋭い。
「梵天丸さま。護衛の訓練とは、戯れでございましょうか?」
「い、いや……これは……その……」
「ええと……これは“緊急時にも笑顔を忘れない”という大事な訓練でして……」
「黙れ、つばき」
珍しく黒羽が口を挟んだ。俺は吹き出しそうになりながら、目線をずらした。
けれど、そのときだった。
庭先から、微かな気配が――吹いた。
風とは違う。視線だ。
俺は、ぞくりと背筋に粟立つ感覚を覚えた。
黒羽がすっと前に出て、扇を開いた。
つばきは即座に俺を背後へ庇うように移動する。
「……気配が、ございます」
黒羽の声は、低く、張り詰めていた。
庭の石灯籠、竹垣の裏、土塀の陰……誰かが見ている。
目には見えない。
だが、そこに“何か”がいる。
屋根瓦が、一枚、ころりと転がった。
風は吹いていない。となれば、動いたのは“誰か”だ。
「中へ──!」
黒羽が俺を抱き上げる。
つばきが振り返りざま、何かを投げた。光を反射する小さな手裏剣が、空を裂く。
そのとき。
「遅れを取りました、申し訳ありません」
低い声が背後から届く。
俺が振り返ると、そこには片倉小十郎がいた。影のように、音もなく。
「梵天丸さまの護衛中、気配に遅れました」
「……いいよ、小十郎。俺も、ちょっと、浮かれてた」
それよりも――と俺は口を閉ざし、そして小声で告げた。
「影は、“笑ってた”。声じゃない。だけど、鼻歌のような、くすくすと……そんな気配があったんだ」
小十郎が目を細める。
喜多もまた、籠を置いてじっと空気を見ていた。
くすくす。
風の音にまぎれて、ほんのわずかに、聞こえた気がした。
笑っている。
見えぬ敵か。
それとも、俺の中の“何か”を知る者か。
けれど俺は、もう迷わない。
この力は、ただの幸運ではない。
生き残ったあの日から、俺は“見えぬ何か”に目を付けられている。
それを見抜き、討つ。
それが、政宗の名を背負う俺の役目だ。