『一時の城、永遠の道』
二月の半ば、霜柱の背丈が少しずつ低くなってきた頃、中村城の「愛姫御座の間」が仕上がった。最後の畳が音もなくはめ込まれると、草の匂いがふっと立ちのぼり、冬の硬い空気にやわらかな筋を一本通したように感じた。薄桃の唐紙はもう粉を吹かず、指で撫でれば絹の音を返す。床柱の松は年輪をむき出しに堂々と立ち、床框に沿わせた桜皮の細工が、まだ来ぬ春を控えめに予告している。
「殿、御座の間、出来栄えいかがに」
喜多が小さく微笑む。灯を一つ落としてみると、東向きの床の間に朝陽が射したときの角度が偲べる。障子越しの白が淡く桃を含み、座布の浅葱がいっそう清らかだ。伊佐はなぜか畳に寝ころんで「うわ、やわらけぇ」と感嘆し、即座に喜多に襟首を引っつかまれた。黒脛巾の若いのが慌てて箒を持ち、小夜は柱の影で控えながら微かに笑う――この軽さが、重い時勢に必要な油なのだと、最近やっと思える。
「よい。ここで最初に迎える朝が、穏やかであるように」
そう言って床柱に掌を置く。木の冷たさの奥で、樹の時間が脈打つのがわかる。柱は揺れぬために叩かれる。叩かれた数だけ、座りが深くなる。人も同じだ。
御座の間を出ると、片倉小十郎が待っていた。図面を巻いた筒を脇に抱え、いつものように余白を崩さぬ佇まいで一礼する。
「殿。もし中村をこのまま本拠として用いられるなら、城そのものの改修に手を付けるべきかと存じます。天守の骨は悪くない。しかし内堀の浅み、土塁の脆い箇所、城下の火除け地、どれも“仮”のままでは、長い雨に耐えませぬ」
小十郎らしい、遠慮のない進言。俺は廊下の欄干にもたれ、庭へ目をやった。梅がまだ固い蕾を閉じ、北風が砂紋を薄く撫でている。中村の空の低さ、潮の匂いの薄さ、そして――ここから見える南の道。
「改修の案、見せてくれ」
筒から広げられたのは、石垣の角度、空堀の深さ、馬場の幅、城下の火除地の新設場所、洪水時の逃げ水路まで描かれた精緻な図。見れば見るほど、金と人と時が吸い込まれていくのがありありと想像できる。つまり、良案だ。
「……良い。だが、小十郎」
俺は図に視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を置いた。
「中村は“今の戦”に勝つための城だ。俺は、いずれ常陸に移る」
小十郎の睫毛が、わずかに動いた。
「常陸、に」
「うむ。勿来の砦は喉だ。磐城平城は肺だ。だが心臓は、いずれ常陸に置く。那珂と久慈、二つの川が陸の荷を吸い上げ、鹿島灘の潮が海の荷を引く。そこに腰を据えれば、奥州は南で呼吸ができる。松川浦で息を吸い、小田原へ吐き、やがて熱田、京――その道を太くするには、ここはどうしても“前線の陣屋”に留まる」
言いながら、自分の舌の上で言葉の重さを確かめる。祖父の葬の香がまだ鼻の奥に残っている。約束は軽くない。だが、潮の道理に逆らって石を積めば、城も人も沈む。
小十郎は図面を畳まず、視線だけをこちらへ寄越した。
「本拠移しを見越して、中村は“過不足なく、ほどよく”。そういうことで」
「そうだ。傷んだところは塞ぐ。動線は整える。だが、石を積んでしまえば、石は人の心を縛る。『せっかく積んだ』が、いつか足を鈍らせる。御座の間は積んだ。あれは良い“重み”だ。だが城は……軽くしておく」
「軽さは脆さと隣り合います」
「軽さは速さの親だ。脆さは見抜いて補う。たとえば――」
俺は指で図の上を辿り、内堀の浅い箇所を叩いた。
「ここは勾配だけ詰める。石は積まない。雨が来れば流れる。流れたらまた崩せ。『崩せる』造りにしておけ。退く時に、味方の足を引かぬように。土塁は植を増やす。根で締める。人手の要る工は避け、年の力を借りる」
小十郎が、目だけで深く頷く。こういう頷きが出来るのが、片倉小十郎という男の怖さであり、心強さだ。
「城下の火除け地は?」
「広げる。だが、そこに市を置く。空白は人を怯えさせる。人の流れで火を切る。荷の流れは松川浦へつなぐ。橋は“落とせる橋”にしておけ。常陸へ移る日、橋は道にも罠にもなる」
「…………」
小十郎は沈黙のまま、筆を走らせた。欄干の外では、黒脛巾の若いのが職人に混じって土を運んでいる。伊佐が縄を張って足を滑らせ、喜多に「そこで転ぶのが火除けです」と叱られ、土埃が日向で金色に舞った。小夜はその埃の流れを目で追い、風の向きを測っている。戦場でも台所でも、この女は風を見る。
「殿」
小十郎が静かに口を開いた。
「常陸へ移る――その殿の心が城に透けて見えると、家中に“仮”の気配が沁みます。それは、士気の火を弱めるやもしれません」
「承知している」
俺は図面から目を上げ、小十郎を正面から見た。
「だからこそ“柱”を立てた。御座の間は仮ではない。愛姫は花ではなく柱だ、と俺は言った。家の中枢はここにある。ここで結び、ここで祈り、ここから出立する。外壁は軽く、内の柱は重く。……家はそういうふうに造る」
言い切ると、小十郎は表情を消して一礼した。その礼は、言葉ではない承認だった。
「では、中村の改修は“軽くして速く”。防火と水路、退き口の整備を先。城門は建て替えず、蝶番を新調。見た目は変えず、中身を変える」
「頼む」
「御意」
小十郎が去ると、御座の間に戻った。まだ誰の気配も染みていない空間は、音を吸って静かだ。床の間には何も飾っていない。飾らないことで、未来の余白を残す。障子越しに、庭の梅を剪る鋏の音だけが“時刻”を刻んでいた。
ふいに、小夜が襖の外から声をかけた。
「殿。御座の間の庭口、三歩で縁へ。ご所望のとおり、段差は低く。風の抜け、確かめますか」
「頼む」
庭へ出ると、風は北から東へわずかに寄れていた。濡れ縁の板は海松の板目、潮を吸った木のしっとりした肌が靴裏に馴染む。俺は縁に腰を下ろし、空を見た。雲は高い。常陸の海へ抜ける空に似ている。
「殿は、本当に南へ行かれる」
小夜は断言するように言った。問いでも諫めでもない。ただ、風の報せのように。
「ああ。だが、急がぬ。急ぎほど丁寧に。三春の輿入れを通し、白水の鐘を受け、磐城の市場に“笑い”を増やしてからだ」
小夜は頷き、風の向きをもう一度見る。
「では、その時には――私たちは」
「一緒に行く」
遮るように言った。小夜の顎の線がわずかにほぐれ、頬の白い痕が、一瞬だけ薄桃に見えた。嘘のようだが、ほんとうにそう見えた。
「伊佐も連れていく。喜多も。黒脛巾は半分残して半分持っていく。片倉は……全部欲しいが、半分は米沢に置くことになるだろう」
「半分は殿の背に」
「半分は父の影に」
ふたりで笑った。笑うと、庭の梅がほんの僅かに揺れた。風か、鳥か、あるいは気のせいか。いずれにせよ、春の演習だ。
御座の間へ戻ると、伊佐が何やら得意げに立っていた。
「殿、御座の間の入口、泥よけに莚を敷きました。これで靴の土が畳に乗らぬ。名付けて“莚奉行”」
「役職は作らなくてよい」
「では“莚侍大将”で」
「却下だ。……だが、よくやった」
褒めると、伊佐は耳を赤くして莚を撫で、喜多に「撫でると埃が立つ」と叩かれた。黒脛巾の若いのが端を押さえ、小夜が風の向きに合わせて角度を少し直す。何でもない所作が、城の“体温”を上げていく。
俺は最後に、御座の間の柱にもう一度掌を添えた。桃の節句まで、あと少し。母上の矢は鋭かったが、俺は弦を緩めない。父の一行は短かったが、重かった。和尚の鐘の音は遠いが、耳の奥ではいつでも鳴らせる。中村は“一時の城”。だが、一時とは、刹那ではない。次の城へ渡すための、正確な長さを持った橋だ。
城は軽く、道は重く。柱は内に、潮は外に。
俺の胸の中で、その順序が盤石になっていくのを感じながら、畳の縁を一筋、指先でなぞった。指に触れた浅葱の糸が、南の風の色に見えた。やがてこの色が、常陸の海の上で大きくはためく。そうなる未来を、俺はもう恐れない。