『桃色の返書、黒雪の来訪』
雪はまだ硬い。だが風の底で、桃の芽が小さく鳴っているのがわかる。御座の間の増改築は着々と進み、敷き込んだ新しい畳は草の匂いを静かに吐き出していた。薄桃の唐紙はまだ乾ききらず、指先にそっと粉を残す。障子越しの光は白く、春の輪郭だけを先に運んでくる。
俺は文机に向かい、米沢へ遣わした飛脚の返書を開いた。墨は濃くも薄くもなく、父らしい節度で紙に収まっている。
――「政宗の思うようにいたしなさい」
それだけだった。けれど、その一行の重みは、いかなる長文にも勝る。父は余白に任せる人だ。任せるとは、見捨てることではない。己の名で決め、その結果も己で背負え、ということだ。胸の奥で、冷たい冬気と温い春気が同時に息を吸う。
「殿、喜ばしい文でございますね」
片倉小十郎が控えから進み出る。俺は頷き、文を畳んだ。
「桃の節句、変わらず通す。三春の路は雪を払い、輿の揺れを抑えよ。……あと、御座の間の庭口は一間広げる。春風は急に向きを変えるからな」
「承知」
小十郎が下がったあと、廊の向こうから木槌の音が戻ってきた。伊佐が脚立の上で襖を持ち上げ、くしゃみを一つ。喜多がすかさず「埃を吸うな、春を吸いなさい」と扇で小突く。黒脛巾の若いのが「春は吸えません」と真顔で言い、小夜が薄く笑う。緩んだ空気は、糸を撚る時の指の温度にちょうどよい。
そのときだ。門のほうで雪を裂く舁きものの音が近づき、玄関の板間が硬い草履で鳴った。報も礼も控えめで、しかし一切の迷いのない足取り。冷香が先に広間へ入ってくる。
義姫――母上の来城であった。
「御無沙汰をいたしております」
座につくや、挨拶の儀礼は短い。母上の言葉はいつだって矢のようだ。無駄な羽根はない。まっすぐ人の胸板に刺さる。
「今からでも遅くはありません。田村家との輿入れはなかったことにいたしましょう」
障子の向こうでは、雪が降っているのか止んでいるのか分からぬほど静かだった。俺は背筋を伸ばし、握った扇を開く音をできるだけ小さくした。
「……理由を、伺いましょう」
「最上との縁を深めるべきです。正室は、最上家に縁のある家から迎えるがよい。田村は南の小結束、いずれ利を尽くせば離れます。最上は違う。わらわの実家――血は、簡単には切れませぬ」
母上の声は凛と澄んでいる。幼いころからその声に育てられてきた。叱責の後ろに、たしかな「護り」があることも知っている。だが、俺は今、別のものを護らねばならない。
「父上からは、『政宗の思うように』と返書をいただきました」
「父は優しすぎます」
即答だった。母上は扇を一つ打ち、俺を見据える。
「政宗。おまえは戦だけで家を保てると思うてはならぬ。婚姻は戦より深い。田村の娘を正室に迎えれば、南は確かに和らぎましょう。しかし、それで上が納得すると思いますか。最上はおまえの背を見ています。背に刃が立つ日を、わらわは見たくない」
最上。母上の実家。血の論理。雪のように冷たく、溶ければ流れが速い。俺はゆっくり扇を閉じ、言葉を選んだ。
「……母上。わかっております。ですが、俺には見えているものがある」
「何が見えるというの」
「愛姫という柱です」
母上の眉が、わずかに動いた。俺は続ける。
「俺が南で戦を抑え、海で道をつくり、民に灯を置こうとするとき、傍に立って風を読める者が要る。花ではなく、柱。俺が折れぬように、家が軋まぬように。……愛姫は、そういう人です」
「会うてさえおらぬのに?」
「会わずとも、わかることもあります。書の筆圧、行間の余白。田村の家中が娘御にどう接しているか、返書の端のほつれ方に出る。貴女に教えられた見方です、母上」
母上の扇が止まる。ほんの一拍。冬の光がその扇の表を走った。
「それに――田村との縁は、南の喉を温めます。三春から磐城へ、勿来へ。狼煙の繋ぎは滑らかになる。最上との血の縄は、断つための刃も必要です。刃は、いつか必ず血を呼ぶ。いま我らに要るのは、血ではなく潮です。松川浦から小田原へ、熱田へ、そして京へ。潮の道を逆らわぬ縁で繋ぎたい」
母上は目を細めた。冷たいが、怒りではない光だ。
「言葉は立派。けれど夫婦は言葉で持つものではありません。女は、家の中で最も長い戦をするのよ」
「だからこそ、俺は約束を違えません。正室の御子を嫡とする。側室を持つことは明かにした。田村にも、白水の鐘の前で誓わせる。婚姻で嘘をつけば、磐城の民は鐘の音を疑う。……嘘は戦より毒です」
母上はしばらく黙し、やがて小さく舌打ちをした。珍しい。怒りを隠さないのは、俺にこそ隠す価値がないと見ているのかもしれない。
「最上と縁を深めよというのは、わらわの“母の勘”でもあるのです。政宗、後悔しても知らぬぞ」
「後悔は、戦場に置いてきます。ここでは、約束だけを置きます」
静かに言うと、母上の頬にかすかな紅が差した。寒気ではない。怒気とも違う。何かの決意の色。
「……ふん。梵天丸はよく喋るようになった」
「母上に育てられましたから」
「口が減らないところまで似るとはね」
扇が一閃し、俺の膝前に落ちた雪片を払った。握った柄から細かい震えが伝わるのを、俺は見て見ぬふりをする。
「政宗。親子である前に、わらわは最上の娘。おまえは子である前に、伊達の主。そうであれば――今日はこれまで」
母上はすっと立ち上がり、振り返らずに歩き出した。裾が雪の白をすくい、黒い漆の髪が一度だけ光を返す。玄関で喜多が拝礼し、伊佐が慌てて道を開け、黒脛巾の若いのが転びそうになって小夜が袖を掴む。音はすべて小さく、けれど確かだった。
去り際、母上は一度だけ振り向いた。目は怒っている。だが、その奥にあるものは知っている。幼いころ、熱を出して寝台で見上げた天井の木目。そこに宿っていた心配の色と、同じ色だ。
「……病をするときは、早く知らせなさい」
それだけ言って、義姫は帰っていった。
広間に静けさが戻る。吐いた息が白い。俺はゆっくりと座に戻り、扇を膝に置いた。小十郎が戻り、何も訊かずに一礼する。喜多は茶を置き、何も言わずに下がる。伊佐が「殿、餅は……」と言いかけ、喜多に扇で黙らされる。小夜はただ、俺を真っ直ぐ見て頷いた。その頷きは、戦場で矢の雨を前にするときの頷きと同じだった。
父の一行と、母の一会話。二つの波が胸の中でぶつかり、やがて一つの流れになっていくのを感じる。流れは南へ。三春へ。桃の節句へ。俺は文机に向かい、二通の文をしたためた。ひとつは三春へ――日取りの確定と、路の雪払いの礼。もうひとつは白水阿弥陀堂へ――起請の備え、鐘一打の願い。
筆を置くと、外で木槌の音が再び立った。御座の間の床柱が、いよいよ座りを得たのだろう。柱は揺れぬ。しかし揺れぬために、たくさん揺れる。職人が叩き、木が鳴り、家が息をする。俺もまた、揺れて、座りを得ねばならぬ。
「殿」
小十郎が声を低くした。「三春へは予定通り。最上筋へは、こちらから“遅礼の礼”を」
「そうだな。礼は欠かさぬ。だが、軸は動かさない」
「御意」
障子の外、雪に混じって、ほんのわずかに柔らかな風が立った。桃の節句まで、あとわずか。俺は扇を開き、畳の目を一つ一つ数えながら呼吸を整えた。母上の矢は鋭い。だが、俺もまた弓を持つ者だ。的は、ぶらさない。弦は、緩めない。握るのは、怒りではなく約束だ。
――愛姫を、柱として迎える。
それが、いまの俺が選ぶ唯一の道であり、未来の俺が感謝する唯一の決断だと、知っている。雪はまだ硬い。だが、風の底で、桃の芽は小さく鳴り続けていた。