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『桃の節句の約束』

田村からの文に朱を入れ終え、硯の蓋を閉めたとき、ふと庭の白が薄桃色に霞んで見えた。雪の底に春が眠っているのだろう。祖父を送った冬が、ゆっくりと体内から退いていく。


「――愛姫の輿入れ、日取りを桃の節句とする」


自分で口にすると、言葉は思った以上に軽やかだった。喪の白と、桃の色。対照の中に、ようやく伊達の春の筋が一本立つ。


「小十郎」


呼べば、片倉小十郎は一歩で座の間合いを詰める。相変わらず無駄のない動きだ。


「三春へ向かえ。清顕公に礼を尽くし、桃の節句――三月三日と伝えよ。喪明けの時節、山路の雪の機嫌、城下の準備、人の心の温み、そのすべてを秤に掛けて、この日だ」


「承知つかまつりました。文と口上、二重にいたしまする。道々、田村領の橋桁・関の雪払いも頼み置き、当日は婦人の輿が揺れぬように」


「そこまで気が回るなら安心だ。……ひとつ、頼みがある。清顕公へ、私からの直の言伝えも。『政宗、娘御をおあずかりするに、軽々しくはせぬ』とな」


小十郎は深く頷き、「必ずや」とだけ言って立ち上がった。出立の支度に向かう背に、冬の光が斜めに差し、影がぴたりと整って床に落ちた。影の形まで几帳面な男だと、こんな時に思う。


さて――


「喜多」


侍女頭の喜多が、すでに控えていた。「はい、御座のおまの件でございますね」


「うむ。『愛姫御座の間』を増改築する。急ぎだが、急ぎほど丁寧にやれ。まず間取り――北の風が直に当たらぬよう、御簾の内側に一間、風除けの小座敷を足す。床の間は東向き、朝日が射す刻に顔が柔らかく見える」


「御意。床柱は、松か桜かで迷っておりましたが……」


「桜は華やかだが、松の年輪のほうが“家”の堅さを示す。床柱は松、床框に桜の皮を一筋。襖は白すぎると冷える。絹唐紙に薄桃の更紗を散らし、春になっても目が疲れぬように」


喜多が走り書きをしながら、時折こちらを見る。「殿、女所帯には香りが要にございます。白檀だけでは重い。梅の香を薄く焚けるよう香台を二つ。ひとつは書院、もうひとつは化粧の間へ」


「化粧の間は西日が強い。格子に薄絹を張って光を和らげよ。鏡台は低すぎると腰を痛める。足元に火鉢を仕込め」


「承知」


黒脛巾組の二人が畳を抱えて現れた。普段は刃の影の連中が、今日は表で大工の手伝いをしている。妙な取り合わせだが、手際がいいのは変わらない。


「殿、畳は“女様の足に柔らかに”との仰せ。藁床を厚めに、畳縁は……」


「黒は重い。浅葱に白の松皮菱。踏んだときに一瞬、春風が立つようにな」


「春風は立てませんが、埃なら立ちます」

思わず口にした伊佐が、喜多に耳をつままれて「ひ゛っ」と変な声を出した。


「埃は立たせるな」


「は、はひ」


笑いが小さく漏れて、すぐに収まる。こういう緩みは悪くない。場を温め、手を速くする。


小夜は柱の影から図面を覗いていた。頬の白布もだいぶ細くなった。俺が目で問いかけると、彼女は静かに言った。


「御座の間の戸口、内から外へ三歩で庭に出られるように。春は突然、風が変わります。空気が滞ると、熱がこもります」


「よし。庭側に小さな濡れ縁を延ばせ。腰掛け一つ。雨の夜、そこに座れば、雨足で時刻が読めるように」


「殿、雨で時を計るのは僧か盗人です」

伊佐がまた余計なことを言う。小夜が目だけで笑った。


職人衆が呼び込まれ、木槌の音が城に響き始めた。棟梁は織田から来た船大工の棟梁と顔なじみらしく、「板は船も御殿も似たようなもんで」と笑っている。厚みを問えば寸で返り、節を問えば木の出自まで語る。こういう男は嘘をつかない。


「殿、縁側の板は海から持って来た松がよろしい。潮を吸っておって、夏に暴れません」


「まことか」


「まことですとも。板にも潮の道理がある」


言い切る顔が晴れやかで、こちらまで胸が軽くなる。板一枚にも、道がある。ならば婚礼にも、戦にも、道がある。


「厨の手配は私が」と喜多。「愛姫様は甘いものはお控えなされるとか。ならば昆布締めの白身、菜の花の辛子和え、春の膳で軽く」


「餅は?」


伊佐が反射で振り向いた。喜多が睨む。


「餅は湯に溶かして出します」


「また溶かされるんですか、俺の餅」


「あなたの餅ではありません、家の餅です」


くだらない言い合いで、なぜか胸の緊張がほどける。戦支度と違い、婚支度は笑ってよい。笑いながら進めるほうが、糸の撚りは強くなる。


「安全の配置だ」

俺は黒脛巾組に向き直る。「御座の間の外側に“見えぬ道”を二つ作れ。ひとつは庭木の裏から土蔵へ、もうひとつは回廊の梁裏。何かあれば女たちが迷わず抜けられる道だ」


「畏まりました」


「番は見せず、気配は見せる。春は人の心が緩む。緩みは花を咲かせるが、虫も寄せる」


「虫払いの香も焚きましょう」

喜多が頷く。虎哉和尚の顔が脳裏に浮かぶ。ついでに和尚にも一筆入れる。「桃の節句、鐘を一打、白水からもらいたい」。遠くの鐘の音は、近くの誓いを強くする。


小十郎が帰り支度を整えて戻ってきた。「殿、口上の文はこのように」と差し出す。

『喪明けの春にこそ結び固めたし――桃節句、日和と道を見極めて迎え奉る』

余白が美しい。言葉は短く、余白が長いほど礼は深い。


「良い。三春の風をよく見て来い。雪の下の土は、春の気配を教えてくれる」


「御意」


出立の刻、城門で馬に跨がる小十郎に、小夜が矢筒の緒を結んでやっていた。二人の間で言葉は少ない。だが、結び目は確かだった。伊佐が「殿、俺の餅も結んで」と言い、喜多に扇で後頭を叩かれている。結ぶものを間違えるな。


午後、棟梁が墨縄を張り、柱が立った。木の匂いが立ちのぼり、御座の間にまだ見ぬ春が少しだけ流れ込む。庭では植木の男たちが、梅の枝を一本、静かに剪っている。花芽を残し、風の通りを作る。切ることは、咲かせるためだ。戦と同じ理だと思い、少し笑った。


「殿」


黒脛巾の若いのが走ってきた。「狼煙台より。常陸方面、風は北東。雪、細し」


「よし。勿来の見張りを二人増やせ。婚礼の噂は蜜と同じだ。甘い匂いに蜂だけが寄るとは限らぬ」


「御意」


夕刻、御座の間の原型が見えてくる。床柱が立ち、床框が光り、襖紙が風にわずかに鳴った。西の空が薄桃色に染まり、障子越しの光が部屋に滲む。思わず足を止めた。まだ人の気配も家具もないのに、ここはもう「待つ部屋」になっていた。待つとは、迎えることだ。迎えるとは、守ることだ。


「殿」


背後で小さく声がして、振り向くと小夜が立っていた。白布の下の傷は薄くなり、目は以前より柔らかい。

「……良い部屋になります」

「良い家にもしよう」

「はい」


その「はい」が、襖に反響して部屋の隅まで行き、戻ってきた。小十郎は山路、喜多は厨、定綱は文と噂、鬼庭は縄と狼煙、黒脛巾は影、和尚は鐘。全ての糸がこの部屋に向いている。一本でも緩めば、張り替えればよい。春は、手の中で作るものだ。


最後に、書院へ戻り、田村へ添え書きをしたためた。

『桃の節句、娘御を花としてではなく、柱として迎え奉る。柱を飾る花は多く要らず、花を支える梁は多く要る――政宗』

筆を置くと、胸の中で小さな太鼓が鳴った。婚礼は戦ではない。されど、どの戦より難しい。刃は使えず、血も流せず、しかし一族と国衆と民心を一度に動かす。ならば、楽に構えて、厳しく運ぶ。笑って手を動かし、目だけ鋭く。


外で、職人が木槌を止め、空を仰いだ。「あ……」と誰かが漏らす。西の雲の縁に、ほんのわずかだが、桃色が指先ほどに灯っていた。まだ冬の空なのに、そこだけ春だった。


「急げ。しかし、急ぐほど丁寧に」


俺は御座の間へ戻り、床の間に一歩入り、柱に掌を当てた。冷たさの奥に、樹の年輪が静かに流れている。愛姫がここで初めての朝を迎えるとき、障子はやわらかく、空気はあたたかく、鐘の音が遠くから届くように――そう、すべてを整えておく。桃の節句は日取りではない。覚悟のかたちだ。俺は手を離し、深く息を吸った。


春へ、進軍する。

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