『冬の口約、雪の臨終』
十二月の風は、刃のように細く冷たい。中村城の大広間に敷いた畳の目まで、凍てついた空気が入り込んでくるようだった。田村家からの使者を迎え、俺は上座に座して文面をあらためる。文には、愛姫の輿入れを「今月中」に、とある。季は師走、道も人も忙しなく、雪は足を奪う。それでも――むしろ、だからこそだ。南奥を結ぶ縄は、凍る前に固く結んでおくに限る。
「日取りは、早ければ早いほどよいとの大殿の仰せ。三春は、支度を既に整え始めておりまする」
使者の声は澄んで、芯が通っている。俺は小さく頷いた。脇には片倉小十郎、控えに喜多、遠巻きに伊佐と小夜。小夜はまだ白布を頬に巻いているが、目の光はいつもの静かな強さを取り戻していた。
「先だって申し上げた条件――小夜、伊佐を側室に迎える件につき、愛姫殿の御意は」
「承知、とのことにございます。家を大きくするは武家の道。只、嫡は正室の御子に、と」
「それこそ武士の家の習い。約す」
口に出した瞬間、自分の声が思ったより重く響いた。約束は、言葉の衣を着た鎖だ。絡め取られるのではなく、自ら結ぶと決めた鎖。これで、磐城の地に通す梁は一本太くなる――そう思った矢先だった。
「急ぎにて申し上げ候!」
大広間の襖が、礼を失せぬぎりぎりの速さで開いた。駆け寄る使番の肩に白い雪が散っている。冬の光が、その雪をきらりと光らせた。
「杉目城よりの早馬――御祖父君・伊達晴宗公、御床に伏され、余命いくばくもなしと……」
膝の下で、畳の目が遠くなった。風がいっそう細くなり、肺の奥で鳴る。片倉がわずかに身を乗り出し、喜多が静かに息を呑む音。使者は深く頭を垂れた。
「若殿、道は凍て付いておりますれば、御出立はお早めにと」
「――すぐに行く」
気づけば立ち上がっていた。田村の使者に向き直り、深く頭を下げる。
「不調法、赦されよ。輿入れの件、急ぎの儀。こたびの一件終え次第、直ちに取り計らう。伊達・田村の結び、我が胸に刻んでおる」
使者は即座に膝を進め、言葉を継いだ。
「ご最前、何卒。清顕公よりも、晴宗公へ御祈念の由。政宗様の道、わが田村も支え申す」
言葉に礼を述べる暇も惜しみ、俺は裃を脱ぎ捨て、具足に袖を通した。冬の革は冷たい。冷たさが骨の奥へ入るほど、心の揺れは逆に静まる。小十郎が手早く紐を結び、喜多が外套を肩に掛ける。伊佐は馬の用意へ駆け、小夜は無言で弓と矢筒を取った。
「小夜、お前は――」
「まいります」
短い返事に、迷いはなかった。俺は頷き、走り出した。
雪の粒が、風の中を針のように走る。道は凍てつき、蹄は火花の代わりに氷を散らした。杉の梢は白く、川は鉛色。吐く息はすぐに白い塊となり、顔にぶつかって砕けた。耳の奥で自分の血の音がする。冬の国を貫くこの道を、俺は何度行き来するのだろう。戦のために、盟のために、そして、別れのために。
杉目城の濠は薄く凍り、空は鉛の蓋を載せているようだった。門が開くと、冷えた薬と焚きしめた香の匂いが鼻を刺す。廊下に置かれた桶の水は薄氷を張り、障子の向こうで灯が静かに揺れていた。
「父上」
病の間の敷居をまたぐと、そこに伊達輝宗がいた。背筋はいつも通り真っ直ぐだが、その眼には深い陰影が宿っている。振り返った父の目に、わずかに安堵が走った。
「来たか」
その枕元に、祖父――伊達晴宗が横たわっている。かつての剛直な眉はやせ、頬は削がれ、指は骨ばって白い。それでも、瞼の下に残る光は消えていなかった。俺が膝をつくと、晴宗の瞼がゆっくりと上がり、わずかな笑みが口元に浮かぶ。
「……政宗か」
掠れた声だったが、言葉には芯があった。俺は額を畳につける。
「政宗、参りました」
「うむ……顔を、よく見せい」
顔を上げる。祖父は細い息を整えながら、俺と父を交互に見た。冬の光が障子越しに白く揺れ、晴宗の白い髭がふるりと震える。
「……目が、遠くを見ておるな」
「はい」
「その目を、近くにも向けよ。家の柱は、遠景を支えるためにこそ、足もとを固めねばならん」
米沢で虎哉和尚が言った言葉に響きが似ていた。代をまたいでも、伊達の骨法は変わらないのだ。
祖父はゆっくりと手を上げ、それが父の手を探り当て、さらに俺の手を探る。痩せた指が、俺たちの指を重ねさせた。骨と骨が触れ合う冷たさの中で、掌の温もりだけが確かだった。
「……親子、手を取り――伊達家を、盛り立ててくれ」
障子の外で、遠く鴉が鳴いた。静かな室に、その声だけが吸い込まれて消える。
「承ります」
俺と父の声が重なった。晴宗の目に、ほう、と微かな光が満ち、それがゆっくりと薄れていく。唇がもうひとつ、言葉を紡ごうとして止まった。
「祖父上」
呼びかけは、冬の川に投げた小石のように、音もなく沈んだ。晴宗の胸の上下が浅くなり、やがて、波が引くように静まった。外の風が、障子を一度だけ鳴らした。
輝宗が目を閉じ、祖父の瞼にそっと指を添えた。俺は深く頭を垂れ、畳の目に涙が落ちる音を聞いた。泣くまいと思っていたのに、涙は勝手に形をくずし、袖に沁みて冷たくなっていく。
「……父上」
父は無言で頷いた。顔は静かだったが、喉の奥で何かが音もなく崩れるのを、俺は見た気がした。
夜、杉目城の中庭に、薄い雪が降った。葬の支度に人が小さな声で言葉を交わし、灯が低く揺れる。俺は縁に座して、白水阿弥陀堂の鐘の音をふと思い出していた。あの澄んだ響きが、雪の夜にも届けばよいのに。
「若殿」
小十郎が背後に控えた。いつもの静かな顔に、深い悲しみを押し包んだ影がある。
「田村への文は、整えてあります。ご不幸につき日取りの改め、しかし結びは揺るがず――と」
「頼む」
「はい」
小夜が少し離れたところに立っていた。白布の下の傷は、雪の色でいよいよ白く見える。目が合うと、小さく頭を下げた。その仕草に、言葉のいらぬ力を感じる。
俺はゆっくり立ち上がり、降りしきる雪を仰いだ。白いものが瞼に落ちて、すぐに溶ける。冷たさが目の奥を洗う。
親がいて、子がいて、そのまた子がいる。手を取り合うという言葉は簡単だが、実のところ、それは「同じ重さを分け合え」ということだ。今日、祖父の手の軽さを、俺は忘れない。あの軽さの分だけ、俺の手は重くなる。ならば、握り直すしかない。
愛姫の輿入れは、やがてこの悲しみの先に来る。結びは結び、別れは別れ。順を違えるな――和尚の声が、雪の向こうから聞こえた気がした。
「親子手を取り、伊達家を盛り立てよ」
祖父の最後の言葉を、胸のいちばん奥に置く。そこだけは、どんな冬でも凍らせぬように。
俺は拳をひとつ、静かに結んだ。白い夜の中で、わずかに、指の骨が鳴った。