『白水の鐘は遠くまで』
佐波古の湯宿を発つ朝、山の谷間は霜を帯びた冷気で満ちていた。二泊三日という短い湯治だったが、湯の熱と笑い声は、確かにあの場にいた全員の顔を柔らかくしていた。
小夜の頬の赤い線も、まだくっきりと残ってはいるものの、肌の下に温もりが戻り、張り詰めた表情は幾分ほどけていた。黒脛巾組の面々も、藪を駆けたときの土埃の匂いではなく、湯と石鹸の香りをまとっている。
帰路は海沿いではなく、山裾の道をゆっくりと進む。湯治で緩んだ身体を一気に戦場の緊張へ戻すのは得策ではない。兵も馬も、心地よい疲れを抱えたまま、中村へ帰る支度を整えている。
しかし、俺にはもうひとつ寄るべき場所があった。
「白水阿弥陀堂に寄る」
馬首を南東に向けながら告げると、伊佐が頷く。小夜は少し目を瞬かせ、そして何も言わずに馬をついてきた。
谷を抜け、田畑の間を縫う細道を行くと、白水阿弥陀堂の屋根が見えてくる。藤原氏の血脈が残した優美な造りは、遠目にも柔らかく、それでいて確かな存在感を放っている。瓦は新しく葺き直され、梁も塗り直されているが、ただ新しいだけではない。年月が積み重ねた線と、虎哉和尚が吹き込んだ息が、静かに息づいていた。
境内に入ると、松の緑が冬の光を受け、深い影を地面に落としている。白砂の参道を進むと、堂の正面で箒を持った僧が頭を下げた。
「若殿様、ようこそおいでくださいました」
「和尚は?」
「本堂にて経を読んでおられます」
僧の案内を受け、本堂の縁へ足をかけたとき、低く響く読経の声が耳に届いた。雪解け水のような清らかさと、山の岩盤のような揺るぎなさが混じった声。それは米沢の寺で、まだ梵天丸だった俺が何度も夜を共にした声だった。
障子を開けると、虎哉宗乙は経机の前に座していた。背筋は真っ直ぐ、数珠を繰る指は節くれ立ってもなお確かな動きだ。読経を終えると、ゆっくりと目を上げ、こちらを見た。
「……よく戻ったな、政宗」
「佐波古の湯で骨を温めた帰りです。磐城の地は、湯も山も良きところですな」
「湯に浸かるのはよい。だが、心まで茹だらせてはならぬぞ」
その口調は相変わらず鋭いが、目の奥にはわずかな笑みがあった。俺は正座し、手をついて深く礼をした。
「白水阿弥陀堂の復興、見事に進んでおります。和尚のおかげで、磐城の民も心を寄せております」
「わしはただ居るだけよ。根を動かすな、と言ったであろう。わしはこの地に根を張っただけだ」
「その根があるからこそ、枝も葉も茂るのです」
そう言うと、和尚は一瞬黙し、やがて笑った。
「口が回るようになったな、梵天丸。……いや、政宗か」
「米沢で学んだことを忘れたつもりはありません」
「ならばよい」
和尚は立ち上がり、縁側に歩み出た。俺も並んで立つ。冬の陽が斜めに射し、庭の白砂がきらめいた。
「磐城の砦を見たそうだな」
「勿来の砦です。右衛門と共に見て回りました。あそこは南への喉です。必ず強くします」
「強くするのは砦だけではない。そこを守る人もだ。石垣や柵は崩れれば直せるが、人の心は崩れれば戻らぬ」
「心得ています」
和尚は庭の松を見ながら、低く呟いた。
「政宗、この先おぬしの道は、剣だけでなく言葉で切り開かねばならぬ。湯で和らげ、寺で結び、時に砦で構える。その順を違えるな」
「はい」
その言葉は、冬の冷気よりも深く胸に沁みた。
本堂を辞す前、和尚はふいに俺の肩に手を置いた。
「……小夜の傷、見た」
一瞬、息が詰まった。
「おぬしが守られたのだな」
「ええ。俺のための傷です」
「ならば、その傷は誇りだと教えてやれ。女の顔に刻まれるものは重い。だが、その重さを軽くできるのは、おぬししかおらぬ」
「わかっています」
和尚の手が離れる。その重みが、まるで何かの証のように残った。
白水阿弥陀堂を後にする時、境内の鐘が一度だけ鳴った。澄んだ音が冬空に広がり、やがて遠くの山々へ吸い込まれていく。
帰路、馬上から振り返ると、堂の屋根が杉の間に静かに見えていた。その姿は、戦の風にも揺らがぬ不動の灯のようだった。
中村城への道はまだ長い。だが、あの鐘の響きが背を押してくれる。俺は手綱を握り直し、馬を進めた。
――磐城も、常陸も、この胸の内にある限り、必ず守り通す。
そう心に刻みながら、冬の陽を背に受けた。