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『佐波古の湯と、湯気の向こう』

磐城の空気は、まだ潮と土の匂いが混じっていた。四倉の藪で浴びた緊張が、胸の奥にこびりついたまま離れない。小夜や護衛たちも同じだろう。あの時の矢音や血の匂いは、皮膚の奥に潜り込み、なかなか抜けない。


だから、俺は評定の場でこう切り出した。


「――佐波古の湯に行くぞ。二泊三日だ」


静まり返った部屋に、喜多の瞬きがやけに大きく響いた。


「は?」


「湯治だ。磐城佐波古の湯は塩気と温もりが強く、怪我にも効く。小夜の顔の傷も、伊佐の肩も、兵たちの足も、このままでは治りが遅い。ついでに俺の疲れも」


黒脛巾組のひとりが思わず吹き出し、慌てて咳払いでごまかした。


「殿、湯治とはいえ……湯に浸かるだけで戦の疲れが取れるのですか?」


「お前、松川浦の風呂も入ったことないだろう? 湯は侮るな。湯に浸かると、人はなぜか『まあいいか』と思えるものだ」


小夜はまだ白布を頬に巻いたまま、「……私も行ってよろしいのですか」と小さく言った。


「お前こそ行くんだ。俺が命じる。絶対に」


「……承知しました」


少しだけ目尻が和らぐ。あの赤い線も、湯気に包まれれば血の色を忘れられるかもしれない。


翌日、俺たちは馬をゆっくり進め、佐波古の山間へ向かった。海沿いから山に入ると、空気の匂いが潮から杉へと変わる。やがて、谷あいの小村の奥に、白い湯気がのぼっていた。


「着いたぞ。あれが佐波古の湯だ」


湯宿の前で、女将が深々と頭を下げた。


「ようこそお越しくださいました、若殿様。今日はちょうど湯が濃うございますよ」


「湯が濃い?」


「ええ、海からの鉱泉が強くなっております。温まりますが、長湯はなさいませぬよう」


黒脛巾組の連中が顔を見合わせる。「長湯はなさいませぬよう」と言われたら、逆に誰が一番長く浸かれるか競いたくなる顔をしている。


湯殿に入ると、白い湯気が立ちこめ、杉の桶からは湯の匂いが立ちのぼる。小夜は女中に案内されて女湯へ、俺と護衛たちは男湯へ向かった。


「ふう……」


足を湯に沈めた瞬間、熱さよりも重みを感じた。まるで湯そのものが、疲れを肩から剥がしてくるようだ。


「殿、この湯……芯まで来ますな」

「だろう。浸かりすぎるなよ」


黒脛巾組の若いのが、「おい、誰が一番顔を出さずに浸かってられるか勝負だ!」と声を上げた。途端に、みんな潜り始める。湯がバシャバシャと波立ち、俺の顔に飛沫がかかる。


「お前ら、湯治に来たんじゃないのか……」


しかし、笑い声が響く湯殿は悪くない。戦場では聞けない音だ。


二泊目の夜、食事処での出来事だ。川魚の塩焼きや山菜の煮物が並び、湯上がりの顔は皆ほんのり赤い。小夜も、頬の白布を外していた。まだ薄く赤い線は残っているが、肌の下に血の巡りが戻ったせいか、以前より柔らかく見える。


「どうだ、湯の具合は」


「……温かくて、忘れられます。あの時の冷たい風も、音も」


「それでいい」


小夜は箸を持つ手を一瞬止め、「……殿も、少しは忘れられましたか」と聞く。


俺は盃を置き、笑って言った。


「俺はな、ここに来てからずっと、湯で溺れそうになる黒脛巾の顔ばかり見てる」


その言葉に座が爆笑で揺れた。黒脛巾の一人が「殿、それは助けてくださらんと!」と叫び、伊佐が「助けたら負けじゃないですか」と茶々を入れる。


湯気と笑い声が重なり、戦場で張り詰めた糸が少しずつ解けていくのを感じた。


最終日、出立の朝。湯宿の前で女将が土産の干物を差し出した。


「お持ち帰りくださいませ。湯の香りは持ち帰れませんが、この味で思い出していただければ」


「ありがとう」


馬に跨り、山道を下る。背後で白い湯気が細く揺れ、やがて杉の影に隠れた。


小夜が馬上でこちらを見やり、小さく笑った。


「殿、また来たいですね」


「そうだな。……だが次は戦の後ではなく、ただの旅で」


潮の匂いが戻ると同時に、俺の中に戦の匂いも戻ってくる。それでも、佐波古の湯の温もりは、しばらくはこの胸に残るだろう。


湯気の向こうに見た笑顔を忘れぬよう、俺は手綱を握り直した。



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