『勿来の風を掴む』
磐城平城の天守から眺める南の空は、灰色と青の境目を曖昧にしながら広がっていた。鹿島灘から吹く風は潮を含み、鼻腔をくすぐる。その向こう――常陸との国境が、わずかな霞に隠れて横たわっている。
「右衛門」
呼ぶと、鬼庭右衛門がすぐさま足音を揃えて現れた。背筋は槍のように真っ直ぐ、視線はいつも敵の影を探している。
「何なりと」
「磐城と常陸の国境を見ておきたい。明日、勿来へ行く。支度を頼む」
言い終えるより早く、右衛門の眉間に皺が寄った。
「……若殿、それはお控えくだされ。国境はまだ完全に固まってはおりませぬ。残党の動きも完全には沈んでおらず、佐竹方の耳目も近くまで来ているやもしれません」
「だからこそ、だ」
声が少し強くなったのを、自分でも感じた。だが、引くつもりはない。
「これからあの地は死守し続けねばならん場所だ。佐竹に油断が見えた時には、逆に常陸へ侵攻するための第一の拠点になる。その砦をこの目で見、地形を感じておかねばならぬ」
右衛門は口を閉じたまま、しばし俺の目を見た。まるで槍の穂先で心を試すような視線。
「……御意。しかし、護衛は倍にいたします。黒脛巾組にも必ず前後左右に散ってもらいましょう」
「それでいい」
承諾の言葉に、右衛門の背がわずかに緩んだ。だが、その奥の気配は張り詰めたままだ。
翌朝、霜を含んだ風が城下を吹き抜けた。まだ朝日が傾くうちに、俺たちは平城を発った。馬の吐息が白く、蹄音が道の石を叩く。黒脛巾組は道の左右に散り、時折、藪や岩陰を確認しては静かに頷く。
小夜は俺のすぐ後ろ、弓を背にして騎乗している。頬の傷はまだ赤く、その線は白布に守られているが、目は以前と変わらず静かだ。
「痛みは引いたか」
「はい。殿の目に入らぬ程度には」
「俺の目にはすべて入る」
軽く笑うと、小夜はわずかに口元を緩めた。右衛門はそのやりとりを聞きながら、前を向いたまま低く言った。
「この道は広く見えても、所々で狭まります。尾根から海へ落ちる谷筋が多く、伏兵には格好の場。南へ行くほどに潮風が強まり、音も乱れます。……だからこそ砦の位置は大事です」
俺は頷き、視線を遠くに送った。
勿来の地は、山と海が手を結ぶように迫り、街道を挟んで両側から影を落としていた。杉林の間を抜けると、視界がぱっと開け、海が蒼く広がる。その海を背にして、まだ若い土塁と柵が立っていた。
「これが勿来砦……」
土の色は新しく、雨でまだ滑りやすい。柵は素朴だが、槍を突き通せぬ角度に組まれている。見張り台には二人の兵が立ち、潮風を背に弓を握っていた。
右衛門が指差す。
「こちら側が常陸へ向かう街道です。丘を削り、左右に土塁を築きました。海沿いの小道は岩場を崩して狭くしております。舟での上陸は難しく、上がれたとしても急斜面ゆえ、すぐに射線に入ります」
「悪くない」
俺は馬を下り、土塁の上へと歩いた。足元の土はまだ柔らかく、踏みしめるたびに僅かに沈む。その感触を確かめながら、常陸の方角を見た。
霞の向こう、薄く連なる山の稜線。その背後に佐竹の領がある。あの山々を越え、川を渡れば、水戸の城下へ至る。
「この砦を支える兵は何人だ」
「常時五十、非常時百二十。黒脛巾組からの連絡があれば、四倉と平城からも兵を回せます」
「足りん」
俺ははっきりと言った。
「いざ常陸へ打って出る時、この砦は背中になる。背を守る兵が薄ければ、前へ出た者が戻れなくなる。……最低でも倍は置け。冬のうちに柵を二重にし、湧き水を確保しろ」
右衛門は黙って聞き、深く頷いた。
「御意。……若殿、常陸への侵攻、早くもお考えで?」
「戦は好まぬ。だが、好まぬからこそ、先を握る。佐竹が動くより先に、佐竹の息を止める手を作る」
その言葉に、右衛門は目を細めた。潮風が二人の間を抜け、砦の旗を鳴らした。
「……若殿の目は、やはり遠くを見ておられる」
「遠くを見なければ、近くも守れぬ」
俺は旗のはためきを見上げた。この小さな砦が、やがて南北を繋ぐ鍵となる――そう信じられた。
「砦の隅々まで見て回る。右衛門、案内を頼む」
「はっ」
こうして、俺たちは砦の隅々を歩き、見張り台に上がり、海の白波と山の影を目に焼き付けた。砦はまだ若い。しかし、若いからこそ育つ余地がある。
この地を握ること――それは、戦を制すためだけでなく、戦を避けるための道でもある。
俺は潮風を胸いっぱいに吸い込み、常陸の方角をもう一度だけ睨んだ。
――必ず、この風を掴む。