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『門に吹く風、胸に残る塩』

磐城平城の石垣が見えたとき、海からの風が少しだけ冷たくなった。砂塵に混じる潮の匂いは、戦の後にだけ漂う鉄の匂いとよく似ている。四倉の杉藪で浴びた血と汗の気配が、まだ衣の隙間に居座っていて、鼻の奥が鈍く疼いた。


木戸が開き、馬の蹄が玉砂利を踏んだ音が中庭に散っていく。出迎えの列の先頭に、鬼庭右衛門が立っていた。鎧は簡素、手入れは行き届き、余計な鈍色ひとつない。槍を持たずとも槍の気配がする男だ。俺が馬を止めると、彼は一歩だけ前に出て、深く膝を折った。


「若殿、遠路ご安着、ようこそ平城へ」


顔を上げた右衛門の目が、俺の背後へ素早く走る。黒脛巾組の数、供回りの気配、歩みの重さ。視線が小夜のほうへ止まった。白布で押さえた頬、乾ききらぬ紅の線。彼の眉がわずかに動き、それから列の他の者たち――腕に木綿を巻いた者、脛に血滲みを作った者――をひと撫でした。


「……道中、ございましたな」


言葉は少ない。それでも、すべて察した声だった。


小夜は軽く頭を下げる。「不覚、に……」と言いかけて俺のほうを見上げ、黙って口をつぐむ。俺は首を振る。その沈黙のやりとりを見届けて、右衛門は息をひとつ整え、玄関先の影を見やってから低く言った。


「まだまだ、岩城常隆の残党もおります。このような少ない護衛では、危険にございます、若殿。……いえ、これは――」


言い淀み、胸に拳を当てる。


「磐城を任されたこの右衛門の落ち度。申し訳ございません」


その声音には、槍の刃先とは違う重さがあった。責を負う者の重さだ。俺は手綱を渡すと、地に軽く下り、砂を払った。


「任せて幾ばくもしていないのに、来てしまった俺が悪い。気にしないでくれ。視て、聞いて、触れておきたかった。いまは磐城の空気を、この胸で確かめたかったんだ」


右衛門は目を伏せ、短く「ありがたく」とだけ言う。その表情には、安堵と悔恨が薄く交じっていた。


中庭を横切る間、城内の匂いが鼻から胸へ抜けた。乾いた米と新しい縄、打ち直した釘の油、そして兵の汗。城は生きものだ。勝ちを得たばかりの城は、とりわけ鼓動が速い。石垣の影で荷駄が運ばれ、渡り廊下の下で子どもが竹馬を止めてこちらを見た。俺は笑いかけると、子はあわてて頭を下げた。笑いが喉に詰まる。こういう小さな羞じらいを、戦はすぐ奪っていく。


「まずは負傷の手当を整えよ。小夜は奥で喜多の手を借りろ。伊佐、黒脛巾の手配を。その後で評定を開く」


短く命じると、空気が流れを取り戻す。小夜は「承知」と一礼して足早に去った。血の線が白布に滲むのを見て、胸の奥のどこかがきしんだ。


「右衛門」


「は」


勿来なこその守りは進めているか?」


問いながら、俺はその場で踵を返し、土間の先――南の空が覗く高台へ歩く。右衛門が半歩後ろに寄り添う。そこから見える丘の縁に、土の新しい色が帯となって走っていた。濠の輪郭、土塁の肩、張られた縄の影。まだ若いが、骨はよい。


「進めております。山背を背にして谷筋を堀に変え、左右の柵は二重。敵が海沿いに回る路も狭くし、鹿島灘の風を背に矢を利かせられるよう、矢狭間を刻んでおります」


「水は?」


「湧きが二つ。片方は覆い、片方は偽井戸に致しました」


「偽井戸?」


右衛門はわずかに口端を上げた。


「はい。いざという時には埋めて足場とし、普段は“井戸がある”と思わせて敵の狙いを寄せる策にございます」


素直に笑いが漏れた。計は鋭い。槍だけの男ではない。俺は視線を遠くの霞へと投げ、頭の中で線と点をつなぐ。勿来の出城、平城の兵、夜ノ森の砦、四倉の検問、松川浦の船。海と陸の結び目に結び目を重ね、ひとつ引けば全体が締まるように。


「佐竹は、まだ腰を上げぬ」


「はい。北条との交易で、鹿島灘は賑わいを増しました。あれを見てなお常陸から兵を出せば、背に不安を背負う。義重は慎重にございましょう」


「だが慎重は“時間を買う”だけだ。時間を、こちらの形に変えてしまえば、慎重は枷になる」


「御意」


右衛門が頷いた瞬間、遠くの空に海鳥が二羽、重なるように旋回した。潮の道を示すような軌跡。俺は目を細める。夜半に企む者の足もとを、昼のうちに固め切れ――虎哉和尚の声が、米沢の雪の記憶とともに胸に響いた。


「城下の様子は?」


「静まっております。白水阿弥陀堂の件が早くも広がり、寺に米を寄せる者が増えました。施薬の棚を設けましたゆえ、流行りの咳も重くならずに済んでおります」


「和尚は?」


「今朝、庭の松の根元を撫でておられました。『この根は、ここにあったものではない。だが、掘り返せば枯れる』と。……つまり、移して根付かせたものを、また動かすな、ということでしょう」


「和尚らしい」


苦笑のうちに、ぴんと背骨が伸びる。根を掘り返すな。人心も同じだ。残党狩りを急ぎすぎれば、残らず敵になる。赦すのは弱さではない。根を守ることだ。


「残党は森に潜む。金を握らせる手も、まだ常陸の北の方から伸びるはずだ。追い詰めるな。ただし、喉は押さえろ」


「喉……勿来の街道と、四倉の浜口」


「そうだ。見せる番兵、見せぬ耳、見えぬ手。三つを違えるな」


「心得ております」


右衛門の返答は乾いていて、それでいてどこか嬉しげでもある。任を賜ることを喜ぶのではない。任が“形”として見えていくことを喜ぶ声音だ。俺はその種を絶やさぬよう、言葉を置く。


「それと――」


口に出しかけて、ふと躊躇う。右衛門の目がこちらを見る。俺は言い換えた。


「小夜の件、胸に置いておけ。ああいう傷は、本人のほか、仲間の心にも刻まれる。今日中に、女たちにも声を掛けよ。傷を“恥じない”場の空気を作るのも、城の仕事だ」


右衛門は短く目を伏せ、深く頷いた。


「肝に銘じます」


廊下の向こうから、喜多の足音。次いで、薬草の匂い。小夜はもう手当てが終わったのだろう。あの細い背が、白い布を巻いて立つ姿が目の裏に浮かぶ。あの線は、俺の旗だ。俺は拳をひとつ握り、開いた。


「評定を開く。大内定綱へは使いを。片倉は松川浦、遠藤は連絡を。田村へ礼の文を一本。白水阿弥陀堂へは、施薬銭の追い寄進だ」


「一度に多く、しかし道は一本でございますな」


右衛門の言葉に、俺は笑って肩をすくめた。


「道は一本に見せるものだ。枝は見せず、根は踏ませない」


城の鐘が、昼を告げる二つの音を重ねた。真鍮の響きが、梁を渡り、庭の砂紋に落ち、兵の胸板で跳ね返る。勝ちの後の城は、速く脈打つ。だがその速さは、やがて“平常”を作るための筋力になる。


「若殿」


右衛門が呼ぶ。振り向くと、彼はまっすぐに言った。


「いまは、ここが“伊達の喉”。必ず太く、しなやかにいたします」


「頼んだ」


それだけ言って、俺は歩を返す。評定の間は光が浅く、地図はいつもより多くの筋を欲しがっている気がした。筆を持つ手は軽い。軽いが、迷いはない。四倉の藪で聞いたあの嫌な鳴りは、もう鳴っていない。


――ここからだ。守ることで攻め、見せることで欺き、静かに、確実に。


「それより磐城と常陸の国境の守りは進めているか?」


俺はもう一度だけ右衛門に同じ問いを投げる。確認ではなく、誓いの形にするために。


右衛門は槍のない手で、静かに拳を結び、胸に当てた。


「進めております。――次は、若殿に“見て”いただけるように」


頷いたところで、廊下の端に小夜の影が差した。彼女は白い布を新しく巻き、いつもの位置に戻る準備をしている。頬の細い線が陽の光に薄く輝き、風がひとすじ、そこを撫でていった。


俺は視線を逸らさず、ただ一言だけ、胸の中で呟いた。


――必ず、太い道にしてみせる。

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