『君の傷に、旗が立つ』
磐城の空は、秋の入り口を思わせる色で広がっていた。潮の匂いが濃い。松川浦を離れて四倉へ向かう街道は、海霧がうっすらと這い、すすきの穂が風に伏すたび、銀の波が陸にも寄せてくるように見えた。
俺は黒脛巾組を先手に散らし、供回り五十を従えてゆっくりと南下していた。視察の名目だが、実際は“心張り棒”だ。平城落着から日も浅く、民の心はまだ揺れる。領主が自ら顔を見せ、声を拾い、傷を数え、手当を約す――それが地固めというものだ。
「殿、前方、四倉の手前に杉の小森。道が狭まりまする」
伊佐が低く告げる。俺は頷き、指を二本立てて合図した。黒脛巾組が左右の茂みへ滑り込む。潮の音が、ふっと遠のいた気がした。
小夜は俺の馬に並び、いつものように小柄な身体を鞍上にしなやかに保つ。細い指先が弓弦を確かめては離し、また確かめる癖。初陣の子狐のようだった昔はもういない。今は、息をするように影へ溶け、影のように戻る、一人前の“くノ一”だ。
「小夜、顔色は悪くないな」
「はい、殿。海の風が気持ちよいので」
わずかに笑む。その笑みは、火皿に置いた炭の赤のように控えめで、けれど温かった。
杉の香りが強まる。道は両側から迫る藪に押しつぶされるように細り、砂利の音が馬蹄にざらりと絡む。胸の奥のどこかが、細く鳴った。嫌な音だ。過去、幾度か命を拾ったときにだけ鳴る、あの音。
次の瞬間、空気が裂けた。
――ヒュン。
一の矢が俺の肩口を撫で、馬の首に突き立つ。獣の嘶き。続けざまに、雨のような矢音。黒脛巾の一人が身を捻って受け、転がる。土が弾けた。
「来たか!」
伊佐が刃を抜く音。俺は馬を開いて路肩の低い土手へ身を落とした。視界が砂で霞む。藪の奥から、裂けた甲冑の影――岩城常隆の残党。面頬の奥で歯が剥き出しに見えるのは、憎悪か飢えか、たぶんその両方だ。
「政宗を討てぇぇ!」
叫びが重なり、刀身が陽を掻く。黒脛巾組が、息の揃った短い合図で弦を鳴らし、静矢が藪の目玉をつぶす。供回りの槍が壁を作り、俺の前に半月の輪を描いた。だが、森の狭さは敵味方ともに間合いを乱す。矢は曲がり、刃は藪に食い、足は根に躓く。こういう場所を選んだ者がいる――残党の中にもまだ頭が回るのが残ったか。
「殿、下がって――」
小夜が言いかけた、その時だ。藪を裂いて飛び込んだ影が、一直線に俺の喉へ来る。目にも止まらぬ近さ。斬光が、時間の表面を薄く削る――
小夜が跳んだ。
薄い体が、燕のように俺と刃の間へ滑り込み、そのままぐいと肩で敵刀を払う。はじけた鉄の火花が、小夜の頬に散った。薄い音。次に聞こえたのは、肉の裂ける鈍い音だった。
「あ――」
小夜の白い頬に、紅の線が走る。細い、だが深い。血が彼女の耳朶に沿って流れ、顎を伝い、喉鎖に滴となる。敵の刀は黒脛巾の二矢で落ち、伊佐の逆袈裟で沈黙した。だが、時間はまだ戻らない。世界は、その傷の色だけを強調したまま、遅い。
「下がれ!」
怒鳴って、小夜の肩を抱きかかえる。彼女の身体は驚くほど軽い。恐怖で震えるのではなく、全身の筋が張り詰めて震えている。彼女は俺の胸の中で、かすかに息を呑んでから、いつもの声で言った。
「殿、ご無事で……」
「無事だ。お前が、そうした」
「よかった……」
その一瞬の緩みを、別の影が狙う。土塊を蹴って飛ぶ残党の刃。俺は左手で小夜を引き寄せ、右手の脇差を水平に払った。金属が撥ね、刃が互いに叫ぶ。黒脛巾の足音が左右から交差し、静矢が三羽、藪の奥の喉元を順に結ぶ。供回りの半月が閉じ、残党の背を短く叩く音。砂利の雨が収まる。
鼻の奥に、鉄と松脂の匂いが重なる。耳鳴りの底で、遠くの波が戻ってきた。
「殿、敵は散じました。追うのは得策にございません」
伊佐の声。俺は短く頷くと、小夜の傷に手を伸ばした。触れれば痛む。わかっている。けれど、触れずにはいられなかった。
「見せろ」
小夜はわずかに顔を背けた。その仕草が、戦場の火の粉よりも熱く、胸に刺さる。彼女がこれまでどれほど“何も気にしないふり”を覚えてきたかを、俺は知っている。
「こんな女……嫌ですよね」
小さな声。笑って見せようとして、笑えていない声。血の線が乾きかけ、皮膚が引き攣る。ああ――この世界は、守ろうと手を伸ばした者から先に傷つける仕組みなのだと、改めて思い知る。
俺は、小夜を強く抱き寄せた。彼女の指先が一瞬、ためらい、それから俺の衣にそっと触れる。背の筋が少しほどけた。
「なにを言う。俺の傍に必ず一生涯いてくれよな」
自分の声が驚くほど静かで、驚くほど確かだった。小夜が息を呑む音が、俺の胸の骨に触れて伝わる。彼女はゆっくりと顔を上げ、片目に涙をためたまま、笑った。
「……殿は、ずるい」
「お前がずるい。俺の命を勝手に守って、勝手に傷ついて、勝手にそんなことを言う」
「殿が勝手に戦を始めて、勝手にみんなを引っ張って、勝手に前を見ていくからです」
ふたりで、少しだけ笑った。海霧が薄れ、空にひとかけの青がのぞく。騒がしかった森が、鳥の声を思い出したように鳴いた。
喜多が薬師を引き連れて駆け寄る。黒脛巾組は外輪を広げ、遅れて来る二の矢を阻む陣を張る。伊佐は倒れた者の数を数え、短く報告をまとめ始める。戦後の手は、いつも通り手早い。俺は小夜の頬に水を含ませた布を当て、止血の膏薬を促した。
「跡になりましょう」
薬師が言う。小夜の瞳が揺れた。俺は即答した。
「誇りの跡だ。俺のためについたものだ。隠す必要はない」
小夜は黙って頷いた。その頷きは、剣呑な戦場の空気よりもずっと強い意志を帯びていた。彼女は自分の傷に負けない。俺はその確信を胸に置いた。
四倉の浜に出る。波が広い。潮風に血の匂いが洗われ、身体の内側まで冷やされる。海の果てに、俺の安宅船が小さく影を置いていた。旗が上がっている。片倉小十郎の策で開いた南の路は、今日も静かに息をしている。
「殿、行軍を改めますか」
伊佐が問う。
「いや、行く。磐城の民は、俺が来ると聞いて待っている。遅れれば、また不安を増す」
「御意」
「それと、四倉の検問を増やせ。残党は今日で終いではない。藪の中に金を握らせる連中の手が、まだどこかで動いている」
「承知」
俺はもう一度、小夜を見た。彼女は弓の弦を張り直し、鏡の代わりに小刀の背で頬の傷をちらと覗いてから、何事もなかったように弦を弾いた。澄んだ音が、海に溶けた。
「小夜」
「はい」
「前へ」
彼女は小さく頷き、黒脛巾の先頭に踊る影へと歩み出した。その背は、細いのに、不思議と大きかった。人は、傷で小さくなるのではない。傷で、旗が立つのだ。心の頂に、はためく旗が。
俺は馬を進め、視線を遠くの海へ渡した。戦は終わっていない。噂はまだ燃え、佐竹はまだ見ている。蘆名は風の向き次第で火をかき立てる。上杉は山陰から季節を選ぶだろう。
それでも俺は行く。今日、守るべきを守れた。この一日の重さを、次の一日に繋げる。それが伊達の主の仕事だ。
「行くぞ、四倉へ」
「おおっ」
声が重なり、蹄が砂を掻いた。海鳥が翼を鳴らして飛び立つ。潮の道が、まっすぐに南へ伸びていた。俺は手綱を握り直し、胸の内の旗を、もう一度高く掲げた。小夜の新しい傷が、そこにたしかな風を吹かせていた。