『不動明王のごとく』
虎哉宗乙が中村城にやってくると聞いたとき、胸の内に去来したのは、懐かしさと緊張が入り混じった、なんとも形容しがたい感情だった。
米沢にて初めて師に叱られた日。寒さに震える寺の本堂で、凍えた足をさすりながら、ただ黙って経を唱え続けたあの夜。俺がまだ「梵天丸」と呼ばれていた頃、虎哉和尚は容赦なく、しかし深い慈悲を持って俺の心を鍛えた。
そして今、俺は伊達家の嫡男、政宗と名乗る身である。
そんな俺のもとに、あの虎哉宗乙が――。
「虎哉宗乙殿、ただ今ご到着なされました」
喜多が知らせてきた時、思わず呼吸が一拍遅れた。
書院に師を通すよう伝え、俺は姿勢を正して床に座った。やがて障子が静かに開き、草履の音がすり足で近づいてくる。部屋に満ちた静寂の中、その一歩一歩がまるで鐘の音のように響いた。
「……しばらく見ぬうちに、骨が太くなったか」
それが、師の第一声だった。
「はい。政宗と名をいただいてより、微力ながらも主として生きる道を歩んでおります」
俺は頭を下げ、幼き頃と変わらぬ礼を尽くした。虎哉は正面に座ると、じっと俺を見つめたまま、口を開いた。
「白水阿弥陀堂の再興、手は貸す。だが、住職の座に就く気はない。わしの出る幕ではあるまい」
予想していた通りの返答だった。だが、俺も黙って引き下がるつもりはない。
「和尚。磐城の地に必要なのは、建物ではなく、信です。戦に勝つだけでは、人の心は得られません。民が心を寄せ、拠り所とできる場所がなければ、この地はいつまでも“奪われた地”のままです」
「……ふむ」
「寺を建てても、それが空の箱では意味がない。中に灯が必要です。民がその灯を見て、そこに温もりを感じ、はじめて我ら伊達を受け入れるでしょう。そして、白水阿弥陀堂に灯を灯せるのは、和尚しかおらぬのです」
師の眼差しがわずかに細まる。
「相変わらず、言葉が回りくどいな。米沢で雪に打たれていた子が、少し口が上手くなった」
「口先だけでは、人は動かせぬと、和尚に教わりました」
静かにそう返すと、師はふっと笑ったようだった。
「梵天丸……。あの夜を覚えておるか? 本堂で灯もなく、寒さに耐えながら坐禅を続けていた日。おぬし、途中で泣きたい顔をしておったが、泣かなかった」
「泣いたところで、和尚が許してくださるとは思えませんでしたので」
「ふふ、正解だ」
しばしの沈黙。行燈の炎が揺れ、障子の隙間から涼風が吹き込む。
「ならば問おう。なぜ、おぬしは“わしでなければならぬ”と言う? 白水阿弥陀堂を守れる者は、他にいくらでもおろう」
俺は迷わず答えた。
「磐城にとって、そして私自身にとって、“和尚”という存在が象徴なのです。民が寺を見上げたとき、その中に誰が居るか。それを知れば、彼らの心に届く。我らがただ領地を広げているのではなく、本気でこの地を守ろうとしていると知るのです」
虎哉は腕を組み、深く目を閉じた。数珠が微かに揺れ、静かな音を立てた。
「……不動明王の加護を受けた子は、やはり道を違えなんだな」
「……」
「口ばかりでなく、心に仁がある。怒りをもって戦い、悲しみをもって民を包もうとするか……政宗、そなた、まだ十と少しの子だろう?」
「はい」
「だがその言葉は、何人の将よりも深い」
そう呟いた虎哉は、ゆっくりと目を開けた。
「政宗よ。ならば、この身、この老骨、白水阿弥陀堂に預けよう。住職の座、引き受ける」
俺は深々と頭を垂れた。行燈の灯が、まるで道標のように、書院を柔らかく照らしていた。
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その夜、片倉小十郎に報告すると、彼は目を大きく見開いた。
「……虎哉和尚が、住職を……!」
「言葉で説いたというより、俺の心がようやく届いたのだろう。和尚は、すべてを見ておられる」
「若殿……やはり、あなた様は“人の心”を掴むお方ですな。民も、我ら家中も、今後この磐城もきっと、変わってまいりましょう」
「磐城は得た。だが、これからが本当の勝負だ。刀ではなく、言葉と行動で、我らの旗を掲げる」
月は高く、夜風はどこか優しくなっていた。
白水阿弥陀堂に灯が入り、和尚が住まわれる。戦では決して得られぬ信の礎が、そこに築かれようとしている。
それは、俺が名を継いだ日から目指していた、“力ではない支配”の始まりだった。
俺は、ようやく一歩を踏み出したのだ。
不動の如く、静かに、確かに。