『地に根を張る者たち』
――風が変わった。
城の高殿から眺める磐城の空は、夏の盛りの名残を残しつつも、どこか涼しさを孕んでいた。八月の終わり、かすかに秋の匂いが混じる夜風が、襖の隙間をすり抜けて書院を撫でていく。
「民は、まだ怯えているな」
俺は広げた地図の上、磐城の城下を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
その向かいで正座しているのは、片倉小十郎。口を引き結んだまま、俺の言葉に静かに頷いていた。
「はい。民の目には、我らは“勝者”であり“外から来たもの”……信を得るには、もうひと手間、いや、ふた手間必要かと」
「……勝てば、それで終わりというわけにはいかん。むしろ、ここからが始まりだ」
小十郎は無言で頷きながら、懐から一枚の文を差し出した。
「若殿、実はこの件について、一つ案がございます」
俺はそれを受け取り、目を通す。そこには、岩城常隆に反旗を翻した磐城の旧臣たち数名の名前が記されていた。
「この者たち……謀反の中心だった者たちだな?」
「はい。元より彼らは常隆殿に不信を抱いておりましたが、決して義に欠ける者たちではございません。彼らの多くは、領民に対しても温情深く、人望もある者ばかりです」
「つまり――」
「彼らを伊達家に迎え入れ、領地安堵の御触れを出していただければ、民もまた我らをただの征服者と見なさぬかと」
俺は唸った。確かに理にかなっている。敵将の首を刎ね、残された家臣まで根こそぎ断てば、民の恨みは深く根を張る。
だが、逆にその地に生きる者たちと手を取り合えば、民は安心し、信が芽吹く。
「……それで、向こうは乗るか?」
小十郎はわずかに口元を上げた。
「すでに打診は済んでおります。全員ではございませんが、三名の者がすでに帰順の意を示しております」
「ふっ……さすがだな、小十郎。俺が考えるより半刻早く、ことを進めている」
「政宗様が戦に勝ち、我らが地を得たその日のうちから、このことは念頭にございました」
その姿勢に、心から感服する。
「よし、その者たちに領地安堵の朱印を出そう。だが、それだけではまだ足りぬ。戦に勝っただけではなく、政宗という人間がこの磐城を“自らの地”として大切に思っていると、民に伝わらねばならぬ」
俺は立ち上がり、書院の奥へと進んだ。そこにある木箱を開き、古びた巻物を取り出す。中には、俺が幼き頃より学んできた禅の教義、虎哉宗乙より頂いた筆跡が記されている。
「小十郎、一つ提案がある」
「は」
俺は巻物をそっと膝上に置き、目を閉じる。思い出すのは、松川浦で潮風を受けながら禅の教えを説いてくれた虎哉和尚の姿。
「この磐城には、白水阿弥陀堂という古き名刹があると聞いた。奥州藤原氏ゆかりの寺だと」
「はい、名のある由緒正しき寺にございます。常隆殿も、かつては大いに保護していたとか」
「ならばそこに――我が師、虎哉宗乙を住職として迎えようと思う」
一瞬、小十郎の目が大きく見開かれた。
「虎哉和尚を、白水阿弥陀堂に……?」
「そうだ。寺はただの祈りの場ではない。人が集まり、心を鎮め、教えを聞く場でもある。民が恐れるものは、剣ではなく心の空虚だ。その空虚に、和尚の言葉が届けば、彼らは俺を恐れず、受け入れてくれるだろう」
小十郎は深く頷いた。だが、彼の顔にはそれだけではない何かが浮かんでいた。
「それは……良い手にございます。寺を寄進し、和尚を招く。領主としての威信も示せましょう。加えて、虎哉和尚の存在は、我ら家中の心の支柱ともなります」
「ふっ、ならば決まりだな。今すぐ、根回しを頼む。寺側にも打診を。すでに僧籍を守る者がいれば、寺内に庵を新たに設けても構わぬ」
「承知いたしました。宗教と民心は繋がっております。白水阿弥陀堂を軸に、周辺の村々への施しも同時に開始いたしましょう。施米、薬草、寒の衣。民の目は、金子より行いを見ます」
「頼んだぞ、小十郎」
「かしこまりました」
小十郎が頭を下げると、蝋燭の光が揺らめいた。その影が、まるで新たに磐城に根を張る木々のように、強く、静かに広がってゆく。
俺は深く息を吸い込み、地図の磐城の地に親指を重ねた。
「戦で奪うのではない。心を持って、土地と人に寄り添ってこそ、それが我が地となる」
虎哉和尚の教えが、再び心の中に響く。
白水阿弥陀堂に寄進することで、磐城に伊達家が根を下ろしはじめる。今日の決断が、百年後の安寧へと繋がることを、俺は信じて疑わなかった。