『国境に旗を立てよ』
夏の終わりを告げる風が、中村城の書院を静かに撫でていった。
戦に勝った直後というのは、得も言われぬ空虚と、計り知れぬ緊張が入り交じる。磐城の平定――この結果は、伊達家にとっては確かな一歩だった。しかし俺の胸は、決して晴れ渡ってはいなかった。
それは、勝ち得た領地がもたらす安堵と同時に、必ず押し寄せてくる“報復”の気配を知っているからだ。
書院の床に地図を広げると、蝋燭の灯りがその上でゆらゆらと揺れた。
磐城、そしてその南に連なる勿来の関。
その先には――佐竹がいる。
「やはり、動くな」
独り言ちた俺の背後で、襖が静かに開いた。
「若殿、お呼びにより参上いたしました」
現れたのは、磐城平城を奪取した張本人、鬼庭右衛門。
戦に勝ったばかりだというのに、彼の顔には誇りや興奮といった浮ついた感情は微塵もなく、逆に心なしか険しさすら増しているように見えた。
「よくやってくれた、右衛門。おかげで磐城は無血開城に近い形で手に入った」
「恐れながら、これは若殿のご策あってのこと。右衛門ごときには、もったいないお言葉にございます」
いつも通りの低い声、礼儀正しさ、だがその芯にある緊張を俺は見逃さない。
「疲れているだろう。だが、まだ頼みたいことがある」
俺が言うと、右衛門はわずかに眉を動かしたが、即座に片膝をついて言った。
「命じられれば、すぐにでも」
「磐城平城の城代を、そなたに任せたい」
しばしの静寂。蝋燭の火が、パチリと音を立てた。
「……かしこまりました」
わずかに目を伏せたまま右衛門が答えた。表情には複雑なものが見える。だが、それが何かを問うてやる余裕は、俺にもない。
「平城の防備を整え、民を守り、兵の補充と鍛錬を怠るな。そして――」
俺は地図の一点を指さした。
「南の勿来に、出城を築け。佐竹との国境、そこが我らの防波堤となる」
右衛門は即座に立ち上がり、地図を覗き込む。指差した勿来の位置に目をやると、彼の瞳にわずかながら火が灯ったのを見た。
「ここに出城……なるほど。佐竹の進軍路を塞ぐ、絶妙の位置ですな」
「うむ。奴らが本気で来る時、通るのは必ずそこだ。何としても一矢報いられる場所にしておきたい」
「ならば、山を背にして谷を掘り、左右に柵を巡らせましょう。敵が山越えを嫌って平地に出てくれば、堀の内に引き込めます」
「良い案だ。兵の数と資材、必要なものは遠慮なく申しつけよ」
「ははっ」
久しぶりに、右衛門の口元にわずかな笑みが浮かんだ。その笑みを見て、俺もまた、幾ばくかの安心を得ることができた。
「右衛門、そなたは剛腕の将だが、城持ちとなれば“守り”も磨かねばならぬ。これより先は、ただ槍を振るうだけでは足りぬぞ」
「心得ております。若殿。ですが……」
彼はふと、言葉を濁した。
「……何だ?」
「磐城を落とした際、常隆殿は潔く討たれましたが、その死を悼む声も確かにありました。まだ完全にこの地が我らに染まったとは申せません。民の心を得るには、少しばかりの時が必要にございます」
俺は頷いた。
「わかっている。焦ることはない。磐城の者たちは、これからが“戦後”だ。その痛みも、再生も、右衛門、そなたに託す」
「かしこまりました……政宗様」
久しぶりに呼ばれたその名に、俺はわずかに心が揺れる。
幼き俺に忠を尽くし、戦を重ね、信を重ねた家臣のひとり。その肩に新たな城と国境を預けることは、己の未熟と責任の重さを痛感させるものだった。
右衛門が書院を去った後、俺は再び地図に目を戻した。
平城、勿来――その南には、佐竹、蘆名、さらにはいずれ上杉の影すら伸びてくる。
「さて……これで、ようやく佐竹に“向き合う顔”が整った」
俺は静かに呟いた。
戦とは、ただ勝てば良いものではない。勝ち、その後に守り、根を張ることこそが、領主の責任というもの。
磐城の地を“伊達の地”と呼ばせるには、まだまだ足りぬ。だが、右衛門ならばやってのける。そう信じている。
さあ――この国境に、我らの旗を掲げよ。風吹くたびに翻るその旗が、やがては民の希望となるように。