『槍の先に見えたもの』
磐城の夏は、重たく湿り気を帯びた風が吹く。
その風の中に、わずかに血の匂いが混じるようになったのは、六月が終わり七月の声を聞いたばかりのことだった。俺――鬼庭右衛門は、夜ノ森の砦にて密かに鍛錬を続けていた折、黒脛巾組の密報を受け取った。
「磐城平城、内より割れる兆しあり。家臣の中に、伊達に通じた者数名。蜂起近し」
文は短く、だが明確だった。
俺は即座に槍を取ると、老いた父、鬼庭左月の居る小高城へと伝令を飛ばし、兵の用意を命じた。状況を理解した父は珍しく静かに頷くだけで、何一つ言葉を交わさずに兵の集結を始めた。
戦の火ぶたは、もう切られる寸前だった。
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「右衛門……おぬしの読みどおりじゃったな」
父の声が、松川のほとりに立つ陣幕の中で響いた。俺は濡れた地図の端を押さえながら、小さく頷く。
「謀反の火種は、内から燃えるときが最も脆い。そこに鉄槌を落とせば、一撃で崩れるかと」
「岩城の常隆とやら……わしが若い頃は、あやつももう少し骨のある男と思うておったがな」
父はそう言って笑ったが、その口元には常に鋭利な緊張が滲んでいた。
俺たちは三千弱の兵を率いて進軍を開始した。蜂起の報せを受けて城内が混乱している隙を突く、まさに電光石火の攻め。兵の士気は高く、雨を含んだ夏草を踏みしめて、進軍は静かで速かった。
三日で平城の目前に迫る。
ここで、俺たちは驚くべき光景を目にした。
――敵影、なし。
平城の門は固く閉ざされていたが、矢の一本も飛んでこない。布陣の形すらない。周囲の村々も怯えている様子はなく、むしろ戸口からひそやかに我ら伊達軍の旗を見つめる目すらあった。
「……本当に、無防備だ」
副将の一人が呆れたように漏らす声に、俺は唇を引き結ぶ。
「いや、防備できぬのだ。謀反を内に抱えた城は、外に向ける槍を持たぬ。ましてや、佐竹からの援軍はまだ遠い」
「敵将は?」
「岩城常隆……逃げたか、それとも籠もっておるか。どちらにせよ、我らの槍の射程にある」
父はそのとき、久々に笑みを見せた。
「右衛門、花道は譲る。ゆけ」
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城門を破るのに、さしたる抵抗はなかった。
一部、岩城の忠臣と見られる小勢が矢を射ってきたが、混乱している。全体の統率が取れていない。まるで蜘蛛の子を散らすように、彼らはばらばらに退いた。
「……城を捨てるつもりか?」
俺の問いに、前を行く斥候が首を横に振った。
「本丸に、まだ灯がございます」
ならば、常隆は籠もっている。いや、退けぬ何かがあるのだろう。自らの居場所すら、もはや信じられぬ者に囲まれて。
俺は槍を握り直し、馬を進めた。
本丸に突入したとき、岩城常隆は座敷の奥、鎧も着けぬまま、ただ白装束のような衣で座していた。周囲に護衛の影はなかった。床には倒れた家臣らの血痕が生々しく、あたりには何とも言えぬ鉄の匂いが漂っていた。
「……来たか、鬼庭右衛門」
常隆は、俺の名を呼んだ。俺は無言で馬を降り、槍を構えた。
「戦わぬのか?」
「もはや、戦う意味もあるまい」
常隆はそう言って、手にしていた短刀をそっと畳に置いた。
「私は……いつからか、家臣たちに信を持たれぬ主となっていたようだ。気づいたときには、城の柱のひとつひとつが腐っておったよ」
静かな声だった。悔しさか、哀しさか、それとも諦めか。だが、もうこの男に、主としての気迫はなかった。
「右衛門殿、我が首、そなたに預けよう」
俺は無言のまま、一歩近づいた。
そして――
槍の穂先が、迷いなくその喉を貫いた。
常隆は声もなく崩れ落ち、血が畳を濡らした。
**
わずか七日の戦だった。
いや、「戦」とすら呼べぬ静かな侵攻。佐竹の援軍は届かず、戦が終わった後にようやく兵を動かす気配を見せたというが、時すでに遅し。
我らは磐城平城を無血に近い形で掌握し、伊達の旗を城に掲げた。
「……右衛門、見事であった」
父が肩を叩いてくれた。だが、その手は少し震えていた。老いたのだ。かつてのように無鉄砲に戦を求める父ではない。
「磐城を得たが……これで戦が終わったわけではない」
「わかっております」
そうだ。この勝ちは、あくまで序章に過ぎぬ。磐城は得た。しかし、佐竹も蘆名も、黙ってはおるまい。特に蘆名と繋がる上杉がどう出るか……それこそ、これからの火種だ。
だが、今はこの一歩を誇ろう。
戦わずして勝つ――いや、戦わねばならぬ時に、最も小さな代償で勝ちを得る。それこそが政宗様の望まれる道。
我が槍は、その道を切り開くもの。
夏の磐城の風が、ようやく少しだけ涼しさを帯びて吹いた。