『火種、密やかに燃ゆ』
月が静かに夜の帳に浮かび上がる頃、俺は書院にて報告書に目を通していた。
夜半、風が障子をかすかに揺らし、松川浦の波音がかすかに聞こえる。静寂の中に身を置くと、ふと遠くで燻る何かが、ひたりひたりと近づいてくるような気がしてならない。
そんな時、黒脛巾組の報告が届いた。
封を切るまでもなく、嫌な胸騒ぎがしていた。文を展げ、筆頭の密偵である月岡からの報告を読む。たちまち眉が動いた。
――「磐城城中にて、岩城常隆の家臣数名が謀反を企てております。佐竹よりの援軍に不満を抱く者が、伊達家との内通に動いている気配。城内、分裂の兆しあり」
俺はしばし無言のまま文を握り、視線を夜空へ向けた。
黒脛巾組が潜り込ませていた密偵の数は少ないが、彼らが「兆し」と記すとき、それは確実に火種が現実の炎となる寸前だ。
「……来たか」
小声で呟いたその言葉が、冷たい夜気に吸い込まれていった。
磐城は今、疑心の坩堝の中にある。俺が意図的に噂を流し、佐竹と岩城の間に亀裂を生じさせたのは確かだ。しかし、その裂け目から、実際に火種が燃え上がるとは――いや、いや、燃え上がってほしいとすら思っていた。
俺は文を丁寧に畳み、火鉢の炎にくべて灰にした。
すでに心は決まっていた。次にすべきは、いつでも軍を動かせるよう備えること。だが、今は無闇に兵を動かすと逆に疑いを招く。だからこそ、事前に動けるよう準備だけをしておかねばならない。
「喜多」
呼びかけると、襖の外からすぐに返事が返ってくる。
「は。お控えしておりました」
「鬼庭右衛門殿に伝えよ。夜ノ森の砦をさらに強固に固めよとな。兵の数は動かさずとも、いつでも出陣できる構えでいてほしいと」
「承知つかまつりました」
喜多が即座に立ち去る音を聞きながら、俺は再び地図を広げた。夜ノ森はまさに磐城への玄関口。ここに備えを固めることは、攻撃の意志を見せずに最大限の牽制となる。実に好都合だ。
だが、俺は机に肘をついたまましばらく動けなかった。
――本当に、火蓋を切るべきなのか?
自問した。
かつて、鬼庭左月が無謀に磐城へ攻め入り、我が軍は命と兵糧を削った。今、ようやく策が実りつつある。焦って動けば、それを水泡に帰すやもしれぬ。
だが、逆に、機を逸すれば――岩城は再び佐竹に強く抱き込まれ、我らの策謀はただの悪意として残るだけだ。
「時機を……誤るな」
自分に言い聞かせるように、声を出した。
その瞬間、背後から音もなく喜多が戻ってきた。報告は迅速だった。
「鬼庭右衛門殿、すでに動き始めております。砦にて兵の整備を進め、物資の運び込みも始めておられます」
「よし」
俺は頷き、地図上の夜ノ森の砦に小さな印をつけた。
「右衛門殿の判断には信を置いている。彼の勘は戦において外れたことがない」
喜多は珍しく微笑を浮かべた。
「右衛門様、『待つのは嫌いだが、備えるのは得意だ』と申されておりました」
「ふふ、らしいな……」
かすかに笑みがこぼれた。
だが、それも束の間。再び表情を引き締め、俺は地図に視線を落とした。
この国の北の果てで起きている謀略は、まだほんの序の口に過ぎない。ここからが本番だ。黒脛巾組が嗅ぎ取った火種をどう焚きつけるか、そしていつ炎に変えるか――それを決めるのは、俺だ。
「喜多、明日より松川浦にて船の監督も行う。交易の動きも加速させよ。北条とのつながりはより強く見せねばならぬ」
「畏まりました。ですが、若殿、ご自身のお身体もご自愛を」
「うむ……」
俺は短く返しつつも、心の奥に一抹の不安を抱えていた。全てが、綱渡りだ。どこか一つ崩れれば、伊達家の未来は一転、奈落へと落ちるかもしれない。
けれど――
「それでも進むしかない」
言葉に出すと、不思議と腹が据わった。
磐城。常隆。佐竹。北条。そして、上杉。
すべての動きを先読みし、すべての布石を打つ。そのために俺は生まれた。未来をつくるために。
夜風が、障子の隙間からすうっと流れ込んだ。
ひとつ、深く息を吸い込み、俺は筆を取り直した。
次なる手は、もう見えている。今はただ、その時を待つだけだ。いや、待つのではない。準備しながら迎え撃つのだ。
そして、勝つのだ。静かに、確実に。