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『君を支える者として』

安宅船が松川浦の沖に戻ったのは、夕暮れも近い刻であった。波は穏やかで、春の気配を含んだ海風が潮の香りを運んでいる。俺は船の舳先に立ち、遠ざかっていく南方の地、小田原の方向をしばし見つめた。


小田原にて北条氏政と対した際のあの眼差し――疑念、試し、あるいは興味すらも混ざった猛禽の如き視線を、今も思い出す。


そのとき、俺は政宗様の名を決して出さなかった。


なぜか。それは我ら家臣の矜持であり、我が主君がまだ幼き君主であるがゆえに、外にその名を晒すことなく、内に力を蓄えていただきたいと願うからだ。表に立つのは俺たちでいい。政宗様は、その才と志で大きく羽ばたかれるお方。だからこそ、今はその名を隠すことが、真の忠義と信じた。


船が港に着くと、既に中村城からの迎えの者たちが岸辺で待機していた。安宅船が滑るように着岸し、船を降りると、海風と共に政宗様の声が頭の中に蘇る。


――「そなた自らか? 少々危険ではないか?」


あのときの言葉には、主君の思いやりと、そして俺を信じて任せる心が込められていた。


俺は静かに馬に乗り換え、中村城へと向かった。春を孕んだ風に乗って、道端の野草がかすかに揺れていた。


中村城に着き、政宗様への報告の場に通されたのは夜半であった。


書院に灯る行灯の光は柔らかく、政宗様は机に向かい何やら文をしたためておられた。俺が入ると、その筆を止め、顔を上げられた。


「小十郎、無事戻ったか。何よりだ」


その言葉に、俺は膝をついて深く頭を下げる。


「は。片倉小十郎、無事に小田原より帰還いたしました。お心遣い、痛み入ります」


政宗様は俺に着座を促し、静かに続きを促された。


「で、どうだった? 北条氏政はどう出た?」


俺は深く息を吸い込み、慎重に、しかし曖昧なく事の顛末を報告した。


「北条氏政殿は、我ら伊達家の動きには既に気づいておられました。やはり噂も伝わっておった様子にございます。そして、交易の申し出には理があるとして、了承を得ました」


政宗様は頷きながらも、じっと俺の目を見据える。


「……名は?」


「申し訳ございません、政宗様の御名は一切口に出しておりませぬ」


俺の答えに、政宗様はふっと微笑まれた。微かに、安堵がその笑みに滲んでいた。


「そうか……。ありがとう、小十郎。そなたが私の名を守ってくれたこと、深く感謝する」


「恐れながら……政宗様のお名前を軽々しく語るは、まだその時に非ずと存じまして。今は我ら家臣が、表に立ち支えるときにございます。いずれ、皆が政宗様の名を自然と口にするようになるまで――」


政宗様はゆっくりと頷かれた。その目には、幼さを残しながらも、確かに将たる決意が宿っている。


「北条はどう見た? 我らを」


「疑っておりました。しかしながら、北条氏政殿もまた、この乱世を生きる一人の武将。交易の利益と、その象徴たる安宅船の威容を見れば、無下にはできぬと考えたように見受けられます」


「……なるほどな」


政宗様は机に肘をつき、掌に顎を乗せながら遠くを見つめるように呟かれた。


「それでよい。人の心は見えぬものだが、心の揺らぎを作り出すことはできる。今回の航海で、それが成ったなら十分だ」


「はい。それにより、常陸の佐竹もまた、北条の影に怯え動きを止めるかと存じます」


「磐城を孤立させる仕込みが、いよいよ形になってきたな」


そう呟く政宗様の声は、どこか楽しげですらあった。その目に浮かぶ光は、まるで戦場の霧の向こうを見通す眼差し。あれこそが、我が主の才――この国の北の果てを照らす光である。


「小十郎。今後、北条との交易をさらに安定させよ。物資の流れが続くことこそが、信を成す。そして、その信こそが、噂の刃より鋭く敵を切り裂く」


「御意にございます。速やかに松川浦に戻り、交易の段取りを整えます」


政宗様は頷かれ、そして珍しく柔らかい声で言った。


「……そなたがいてくれて、心強い」


その一言に、俺は胸が熱くなった。


我ら家臣は、この若き当主の背中を守るためにある。そのために命を賭し、知を尽くす。それが、伊達家に生まれた者の義であり、俺の誇りだ。


「政宗様こそ、我らが支えるに足るお方にございます」


俺は深く頭を下げ、再び胸の内で誓いを立てた。


この先、どれほどの嵐が伊達家を襲おうとも、俺はこの男の影となり、光を守り抜く。


それが、片倉小十郎としての、唯一にして絶対の使命である。

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