『相模の獅子と奥州の狐』
片倉小十郎は、波間に浮かぶ巨大な安宅船の甲板に立ちながら、小田原の海岸線を眺めていた。穏やかな春の海は静かで、空は高く澄んでいる。だが、小十郎の胸中は波のように揺れ動いていた。
「いよいよ、小田原か……」
織田信長から贈られたこの威容堂々たる船は、伊達家がこれから辿るべき道を示す旗印となった。甲板に高々と翻る伊達の旗を見つめると、小十郎の背筋は自然と伸びた。
小田原城に着くと、早速北条氏政との謁見が許された。通された書院の間は静寂そのもので、襖には見事な金の蒔絵が輝き、控えめながら豪奢な調度品が置かれている。だがその美しい佇まいとは裏腹に、この場は紛れもなく東国の覇者と北国の策士が相対する緊張の場であった。
やがて北条氏政が静かに入室した。相模の獅子と称される彼の眼差しは鋭く、底知れぬ深みを湛えている。その威圧感を前にしても、小十郎は穏やかな微笑を崩さなかった。
「片倉小十郎と申す者でございます。この度、北条様にお目通りが叶い、誠に光栄に存じまする」
小十郎の丁寧な挨拶に氏政は静かに頷き、ゆっくりと口を開いた。
「片倉殿、はるばる遠方より参られた労、まずはねぎらおう。近頃、伊達家の動きが活発と聞くが……」
氏政の言葉には鋭さが宿っている。小十郎は動じず、落ち着いた声で返した。
「はい。織田殿より頂戴した安宅船を用いて、伊達家は松川浦を中心に交易を活発化させております。この度、小田原との交易が叶えば、東国と北国の繋がりはより強固になるかと存じます」
氏政は小さく頷いたが、その眼差しに疑念の影が揺らめいた。
「その交易の件、まことに理に適った申し出である。されど、片倉殿、貴殿らの策謀はそればかりではあるまい?」
氏政の言葉は、小十郎の心臓を鋭く刺した。だが小十郎はわずかにも動揺を見せず、静かに微笑を浮かべながら答えた。
「北条様の仰せのとおり、我ら伊達家もまた戦国の世を生きる者。何ら策謀を持たずして進める道などございませぬ」
「では、聞こう。その策を指示しているのは誰だ? 噂を広め、佐竹を封じ、磐城を揺るがす……。伊達家にはなかなかに狡猾な者がいるようだ」
氏政の問いは明らかに伊達家の核心を探ろうとしていた。小十郎は表情を崩さず、静かに氏政を見据えたまま答えた。
「謀略を進めているのは、私、片倉小十郎と、大内定綱殿でございます。我らが協議し、若き当主を支えるため、時に周囲の者を動かしておりまする」
氏政は片倉の答えをじっと見据え、疑念の眼差しを送った。しばらくの沈黙が部屋を包んだ後、氏政は低く言った。
「片倉殿、伊達家の若き当主、藤次郎政宗殿の名を出さぬとは見上げた忠節よ。だが……その者、並々ならぬ才を秘めているのではあるまいか?」
小十郎は動じなかった。氏政の鋭い眼差しを受け止め、なお穏やかに微笑んで返す。
「北条様、我ら家臣が智恵を出し、策を巡らすのは当然の務め。当主は我らの献策を聞き、その決断を下されるのみでございます。当主の才は、家臣の献策あって初めて輝きを放つもの」
氏政は小さく笑ったが、その瞳には変わらず深い洞察が宿っていた。
「まあよい。ならば交易の話に戻ろう。そなたらの申し出を了承しよう。北国と東国が結びつくことで、我ら両家とも得るものは多かろう」
片倉は深々と頭を下げた。
「北条様のご英断、伊達家にとって誠に喜ばしいことでございます」
氏政はしばし片倉を眺めた後、ふと口元に微かな笑みを浮かべた。
「片倉殿、見事な腹芸であった。そなたのような家臣を持つ藤次郎政宗殿は、誠に幸運な者よ」
小十郎はあくまでも穏やかな表情を保ちつつ、静かに答えた。
「過分なお言葉、身に余りまする。政宗様をお支えすることこそ、私の本懐でございます」
氏政は静かに立ち上がり、襖を開けて書院を去った。残された片倉は深く息を吐き、ようやく緊張の糸を緩めた。
「北条氏政殿、恐るべき男だ。だが……」
彼は小さく微笑み、庭を見つめた。庭には早咲きの梅が静かに揺れている。
「我ら伊達家にも、同じように才気あふれる当主がおられる。その方を支え、共にこの乱世を切り拓いていくのが私の務めだ」
小十郎の胸に静かな決意が宿った。相模の獅子と対峙し、その視線の深さを知った今、自らがいかに誠実に主君を支えねばならぬかを改めて強く感じた。
やがて、片倉小十郎は書院を後にし、小田原城の外に待つ安宅船へと歩を進めた。その背中には、乱世を生きる家臣としての誇りと覚悟が確かに宿っていた。