『安宅船、南海をゆく』
小評定で大内定綱の提案を受け入れて以来、黒脛巾組が北条氏政が佐竹領を狙っているとの噂を巧みに流し始めた。常陸や磐城の地には疑心が広がり始め、佐竹義重が身動きできなくなる日も近いと感じていた。
だが、そんなある日のこと――
中村城の書院で俺が地図とにらめっこしていると、廊下から聞こえていた足音が書院の前で止まり腰を下ろしたであろう服のこすれる音がした。
「若殿、片倉にございます。少しお時間を頂けませぬか?」
俺は筆を置き、顔を上げた。
「入れ、小十郎」
障子が静かに開き、片倉小十郎が控えめに部屋へ入ってきた。彼の顔にはいつになく強い意志が宿っているように見えた。
「何か考えがあるのか、小十郎」
片倉は静かに頷き、真っ直ぐに俺を見つめた。
「若殿、大内定綱殿の佐竹を動けなくする策は誠に見事でございます。しかし、片倉はそれだけでは少々物足りなく思うのです」
「ほう?」
片倉が物足りないという言葉を使うのは珍しい。俺は興味を覚え、片倉の言葉を待った。
片倉は一呼吸置いてから、ゆっくりと説明を始めた。
「確かに、北条が常陸を狙っているという噂を流すだけでも、佐竹は警戒を強め動きを止めるでしょう。しかし、その噂が真に迫るものであるかどうかが重要でございます」
俺は小さく頷いた。
「その通りだな。で、噂の真実味を高める方法とは?」
片倉は静かに口を開く。
「織田信長殿から頂いた安宅船を使い、小田原との交易を始めてはいかがでしょう?」
俺は一瞬、言葉を失った。だが片倉は、さらに自信に満ちた口調で続ける。
「安宅船に伊達家の旗を高く掲げ、鹿島灘を南下し、小田原と行き来する。その光景を見れば、誰もが北条と我ら伊達が密接な関係を持っていると思うでしょう。北条と伊達家の蜜月関係が現実のものであると見せつけることができれば、佐竹は噂を疑う余地なく動けなくなります」
片倉の言葉を聞いて、俺は思わず膝を打った。
「これは見事な策だ、小十郎。なるほど、噂に真実味を持たせるには、言葉だけではなく行動で示すべきだな」
片倉は真剣な表情のまま、さらに言葉を重ねた。
「しかもこの策は、単に佐竹を動けなくするばかりではございません。小田原との交易により、我ら伊達家の経済も潤います。織田信長殿が送ってくださった安宅船を、真に有効に活用する良策と思いますが、いかがでしょう?」
俺は感嘆し、頷いた。
「まったくその通りだ。まさに一石二鳥の策だ。小田原との交易が実現すれば、伊達家が東北の盟主として西国と東国を結ぶ大きな役割を果たすことにもなろう」
片倉は微笑んで、深々と頭を下げた。
「お褒めにあずかり光栄にございます。若殿のお許しが頂けましたら、早速私自ら安宅船に乗り、小田原へと向かいたく存じます」
俺は小十郎を見つめながら、微かに口元を緩めた。
「そなた自らか? 少々危険ではないか?」
「いえ、伊達家の本気を見せるには、私のような家臣が直々に赴く方が良いのです。小田原の北条氏政殿も、本気で伊達家が交易を求めていることを悟るでしょう」
俺はしばし沈黙し、再び小十郎を見つめる。その瞳には、常に俺と伊達家のために尽くそうとする誠実さが満ちていた。
「よかろう、小十郎。その策、存分に果たしてみせよ。ただし、くれぐれも無理はするな」
小十郎は静かに頷き、もう一度深く頭を下げた。
「御意にございます。この小十郎、必ずや若殿のご期待に応えて参ります」
数日後、小早船の建造で活気づく松川浦では、大型の安宅船が堂々と海上に浮かび、伊達家の紋を大きく掲げていた。その甲板には片倉小十郎が立ち、出港の指揮をとっている。
俺は浜辺に立ち、その光景を静かに見送った。
「いざ、小田原へ参る!」
小十郎の凛とした号令とともに、安宅船はゆっくりと松川浦を離れ、広大な海原へと進んでいった。その威容と堂々たる姿は、まさに伊達家の新たな力を象徴しているように見えた。
「小十郎、そなたが成功すれば、佐竹はもはや動けまい。磐城を得るための布石がまた一つ打たれた」
俺は心の中で静かに呟き、海原に消えてゆく安宅船を見つめ続けた。
小十郎の策が功を奏すれば、佐竹は完全に手足を縛られ、岩城常隆もまた孤立を深める。伊達家はまた一歩、東北の雄としての道を進むことになるだろう。
浜辺に立つ俺の胸に、新たな希望が静かに湧き上がっていた。