『評定に揺れる策謀の波』
春とは名ばかりのまだ肌寒い日、中村城の奥に設けられた小評定の間には、いつもの顔ぶれが揃っていた。俺の意を汲みつつ、それぞれの立場から自由に意見を交わす重要な場だ。
火鉢に赤々と燃える炭が静かに音を立て、その周囲を家臣たちが囲んでいた。今日の主役は俺ではない。家臣たち自身の、伊達家の行く末を案じた言葉が飛び交うことを期待し、俺はあえて口を挟まず、静かに控えていた。
まず口を開いたのは、大内定綱だった。
「若殿の策、岩城常隆と佐竹義重の仲を裂く噂を広める謀略、実にお見事でございますな」
だが定綱は、微妙に眉を上げながら言葉を続ける。
「とは申せ、まだまだ甘いところもございまするが」
その言葉に、すかさず反応したのは鬼庭左月だ。彼は鋭い目を定綱に向け、明らかに怒りを露わにした。
「定綱殿、何を言うか! 若殿の策にケチをつけるとは、どういう了見だ!」
左月は熱を帯びていたが、大内定綱はまるで平然とした表情で受け流した。
「鬼庭殿、私は若殿の策を否定しておるのではありません。ただし、あと一手、さらに深いところへ打ち込まねば、この策も真に生きては参りませぬ」
左月は拳を握りしめ、怒りを抑えきれない様子だったが、その隣に座っていた遠藤基信が穏やかに声をかけた。
「左月殿、まずは定綱殿の意を聞いてみましょうぞ。定綱殿、若殿の策をさらに生かすためには、一体何を為すべきとお考えか?」
遠藤基信の冷静な言葉に、左月もわずかに落ち着きを取り戻し、睨みつけるような視線を定綱に向けながらも口を閉ざした。
定綱は深く頷くと、ゆっくりと落ち着いた口調で話を再開した。
「いま佐竹義重は、岩城常隆が伊達家に寝返るのではないかとの噂で揺れております。確かにこれは素晴らしい策でございます。しかし、佐竹が磐城へと動くのを防ぐには、これだけでは足りませぬ」
基信は注意深く耳を傾けながら問い返す。
「つまり、佐竹が動けぬ理由をさらに作る、ということですな?」
定綱はゆっくりと頷き、静かに口元に笑みを浮かべた。
「さすが基信殿。その通りでございます。いま南関東では北条が勢力を伸ばし、関東諸国に圧力をかけているのはご承知の通り。ここで北条氏政が佐竹領を狙っているとの噂を、佐竹領内や周辺国に広めてはいかがかと存じます」
その言葉に、左月の表情が一変した。今まで強気に怒りを見せていた彼が、一瞬言葉を失い、目を丸くした。
「北条が佐竹を狙う、だと……?」
定綱は、まるで子供に言い聞かせるようにゆったりと続ける。
「佐竹義重は磐城への援軍を送りたいと思っても、背後から北条が攻めてくるかもしれぬと考えれば、簡単には動けませぬ。磐城に援軍を出せば自領が手薄になる……その隙を北条が見逃すはずはないと佐竹に思わせれば良いのです」
左月はしばし黙り込み、考え込んだ後、溜息をついた。
「……なるほど、そういうことか。確かに、北条が動くと思わせれば、佐竹は動きにくくなる。さすがは定綱殿、策謀に関しては侮れぬ男よ」
定綱は軽く笑みを浮かべながらも、真剣な眼差しで語った。
「鬼庭殿、これは戦場で刀槍を交えること以上に繊細な策でございます。噂とは実に不思議なもの。信じるか否かに関係なく、一度心に芽生えれば、簡単には拭えませぬ。まして、佐竹義重は疑り深い男。その性格を利用するのです」
左月は深々と頷き、もはや定綱への怒りを忘れていた。
「……確かに、軍を動かせぬようにするには、これ以上ない策だ」
基信もまた頷き、俺に向かって言葉を発した。
「殿、定綱殿の案はいかがでしょう? 確かに佐竹を封じるには十分な策かと思いまする」
俺は静かに口を開いた。
「うむ、定綱の策は実に見事。佐竹が動かぬならば、岩城常隆は我らの掌中に落ちる。すぐに黒脛巾組を再び動かし、関東からの噂を広めさせよ」
定綱は満足げに頷き、左月は何も言わず、ただ静かに考え込んでいた。
この日の小評定は、熱を帯びた議論から、見事に新たな策謀へと着地した。俺は家臣たちが見せた議論と連携に胸を熱くした。
中村城の外は相変わらず冷え冷えとしていたが、俺たちの心の中には確かな熱が宿っていた。これからの伊達家の運命を決定づける策謀が、いよいよ本格的に動き出すことになる。
この噂という見えぬ刃が、いかなる結末をもたらすのか――俺は静かに期待を抱きつつ、評定の間を後にした。