『噂という名の火種』
春を待つ松川浦では、船大工の指導のもと、小早船の造船が順調に進んでいた。人々の顔にも生気が戻りつつあり、確かな活気が生まれつつある。しかし――俺の胸には常に消えぬ火種があった。
それは磐城――岩城常隆のことだ。
鬼庭左月が独断で攻め込んで以来、磐城攻略は俺にとってどうしても果たさねばならぬ課題となっていた。しかし、磐城は佐竹と手を結び、佐竹の背後には蘆名、さらには上杉までが控えている。無理に力攻めをすれば、佐竹義重は必ずや援軍を送り込み、戦が長引けば、奥州全域を巻き込む大戦へと発展しかねない。
書院で地図を眺めながら、俺は何度もため息をついていた。
「このままでは、じり貧だな……」
そんな呟きを伊佐が聞き咎めた。
「若殿、どうされましたか?」
俺は地図から視線を上げ、伊佐の顔をじっと見つめながら答えた。
「磐城だ。どうにかして岩城常隆を孤立させたい。だが、佐竹が援軍を送れば、蘆名も上杉も動く。力任せでは危険すぎる」
伊佐はしばらく考え込んだ後、慎重に口を開いた。
「では、力でなく策で佐竹と岩城を引き離すのはいかがでしょう?」
その言葉に俺は頷いた。
「うむ、その通りだ。だが、佐竹義重は愚か者ではない。単純な罠では容易く引っ掛からぬだろう」
俺はしばし瞑目し、じっと思案を巡らせた。そして、不意にひとつの考えが閃いた。
「伊佐、黒脛巾組を動かせ」
伊佐が即座に表情を引き締める。
「どのように動かせばよろしいでしょう?」
「岩城常隆が伊達家に寝返る、という噂を流せ。それも佐竹が信じざるを得ないほどに巧妙にな」
伊佐は一瞬目を丸くしたが、すぐにその意図を理解したのか静かに頷いた。
「承知致しました。ただちに黒脛巾組へ命を下します」
数日後、磐城と常陸の各地に密かに黒脛巾組が潜入し、佐竹の家臣たちが耳にするように巧妙な噂を流し始めた。
「磐城の岩城常隆が、実は密かに伊達政宗殿と手を結んだらしい」
「佐竹様には秘密で伊達と寝返りを企てているそうだ」
最初は誰もが鼻で笑い飛ばしていたが、噂は巧みに、しかし執拗に拡がり続けた。
伊達家に寝返る理由として、「佐竹の庇護が不十分だ」「伊達の力が予想以上に強いと常隆が恐れている」など、いかにもありそうな話が囁かれた。さらに黒脛巾組は、あえて佐竹家臣の動揺を煽るために、嘘の密書や密使が往来しているように見せかけ、噂に一層の真実味を持たせた。
やがて佐竹の陣営内部でも疑心暗鬼が広がり始める。
それを俺は静かに眺めながら、少しばかり唇を歪めた。
「佐竹義重よ、さあ、どう動く?」
佐竹義重は決断力があり、勇猛果敢な武将だ。だがその一方で、猜疑心が強いとも聞く。一度疑念が芽生えれば、それを拭い去るのは容易ではないだろう。
案の定、佐竹は磐城の岩城常隆に使者を送り、真意を問いただした。常隆は当然ながら潔白を主張したが、一度生じた亀裂はそう簡単には埋まらない。
こうして噂が噂を呼び、岩城と佐竹の信頼関係には微妙な亀裂が入った。
そんなある夜、伊佐が密かに俺の部屋を訪れ、小声で報告した。
「殿、噂は想像以上に佐竹方の動揺を呼んでいるようでございます。佐竹方では岩城への援軍を出すことを躊躇する声が強まり始めました」
俺は静かに頷いた。
「よし。まずはこのまま静観だ。慌てて動けば逆に疑念を払拭させてしまう。佐竹と岩城が勝手に疑い合うのを待つのだ」
「さすがでございます。殿のご策、まさに神業でございますな」
伊佐の賞賛に、俺は苦笑いで返した。
「神業というより、これは人の弱さを突いただけだ。疑念とは実に脆く儚いものだな」
伊佐はその言葉に小さく頷き、静かに退室した。
俺は再び地図に視線を戻した。
磐城攻略への道筋がようやく見えてきた。このまま岩城常隆が孤立し、佐竹との同盟が瓦解すれば、伊達家は磐城を労せずして手に入れることができるかもしれない。
しかし、その一方で胸の内には小さな影もあった。
策とはいえ、噂という名の火種は、人の心を簡単に揺さぶり、疑心暗鬼を生む。これがどれほど深く人を傷つけるものか――それを俺はよく知っているつもりだった。
「だが、それでも俺はやらねばならぬ。伊達家のため、この乱世を静めるためには」
俺は自分にそう言い聞かせ、静かに拳を握りしめた。
部屋の外では春を待つ冷たい風が音を立てて吹き抜けていた。磐城を巡る戦いはまだ続く。だが、この噂が生んだ小さな亀裂が、やがて磐城の扉を開くことになるのを、俺は確信していた。
乱世とは、こうして策謀と疑念が絡み合い、深い闇を孕んでゆくものなのだ。