『安宅船、海を越えし器』
雪が少しずつ溶け始めた頃、俺の風邪もようやく快方に向かい、少しずつ元の生活へと戻りつつあった。体調が整い次第、また南奥州の防備を固めるべく指示を出さねばならない。だが、その前にひとつ大きな報せが俺を待ち構えていた。
その日、いつものように中村城の書院で文書に目を通していると、廊下を急ぐ足音が聞こえた。ほどなくして伊佐が息を切らせて駆け込んでくる。
「若殿、大変でございます!」
「どうした、そんなに慌てて」
俺が静かに問うと、伊佐は珍しく興奮を抑えきれぬ様子で声を張り上げた。
「松川浦の沖合に、大きな船が一隻現れました! 安宅船と思われまする!」
「安宅船、だと?」
俺は思わず立ち上がった。心臓が早鐘のように鳴る。
――まさか。
俺は急ぎ城を出て、伊佐らと共に馬に乗り松川浦へと向かった。馬を走らせる道すがら、頭の中では様々な考えが交錯している。
かつて、長篠の戦いで織田家へ密かに加勢をしたとき、信長に書状を送って船大工の紹介を願った。だが、まさかこんなにも早く、直接『安宅船そのもの』を送り届けてくるとは想像もしなかった。
松川浦に到着すると、沖合いには紛れもなく巨大な安宅船が威容を誇って停泊していた。その船体には、織田家を示す家紋が鮮やかに掲げられている。
浜辺では、既に人々が集まり、異国からの巨大な船を見るように口々に騒ぎ立てていた。
「これはまた……」
俺はただただ呆然と立ち尽くすばかりだった。その安宅船から、小舟で一人の男が浜辺に降り立ち、恭しく頭を下げた。
「伊達政宗様でございますか?」
俺が頷くと、その男はさらに丁重に膝をついた。
「織田信長様よりのお言葉をお伝え致します。この度の伊達家の長篠合戦における助勢、信長様より心からの感謝をお示し申し上げます。その返礼といたしまして、この安宅船一隻を贈呈いたしまする。また、私ども船大工を数名、織田家より遣わしましてございます。ご自由にお使いくださいませ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に大きな衝撃が走った。
たった数名の密かな助勢に対し、信長はこれほどの返礼をしてくるとは……。
織田信長。その器、その胆力――俺の想像を遥かに超えている。
俺は改めて信長という男の恐ろしさと、その凄みを目の当たりにした気がした。
「信長殿は……一体、どれほどの器量を持つお方なのだ」
思わず漏れた呟きに、伊佐が静かに頷いた。
「殿、これは織田信長というお方がいかに天下を動かす器であるかを示すものでございますな」
俺は再び視線を海へと戻した。安宅船の巨大な姿が、俺の夢を現実へと一歩近づけてくれたような気がした。
船を率いて来た男に向かい、俺は静かに口を開いた。
「織田信長殿のお心遣い、伊達家、心より御礼申し上げまする。これより大切に、そして存分に使わせていただきます」
その言葉に船大工は満足げに頷いた。
その夜、俺は城に戻り、ひとり書院の縁側に座り夜空を見上げていた。
満天の星の下、俺の胸は大きく膨らんでいた。この安宅船があれば、松川浦は単なる漁村から、奥州随一の軍港・交易拠点へと変貌を遂げるだろう。奥州の未来が大きく動き出すことになる。
信長の見せた計らいは、単なる返礼ではなく、伊達家を東北における強大な拠点として育て、織田家の東方の友軍として頼みにしようという深謀遠慮に基づいているのだろう。
「信長殿、やはり貴方は、想像を超えた人物だ……」
俺の口元には自然と微笑が浮かんだ。
そのとき、そっと障子が開いて、喜多が静かに顔を出した。
「殿、夜風はお体に障りますよ」
「喜多、安心せよ。もう風邪は引かぬ。むしろ今は胸が熱くてたまらない」
喜多は怪訝そうな表情で首を傾げた。
「また、何かご無茶を考えておいでで?」
「無茶ではない。夢だ」
俺は微笑んで答えた。喜多は呆れたように微笑み返した。
「殿の夢はいつも大きすぎて、側で見ている者は寿命が縮まりまする」
「安心せよ。お前が老いる前に、きっとこの夢を叶えてみせる」
喜多は笑みを浮かべながら静かに頷いた。
俺は再び夜空を仰ぎ、心の中で信長への感謝を深く噛みしめた。
安宅船という巨大な力を手に入れた今、伊達家の未来は明るい。俺が描いた「争いなき世」への道も、いよいよ現実味を帯び始めてきたのだ。
星空の下、安宅船は静かに波間に浮かび、その巨躯を誇示するように堂々と佇んでいた。
――これが、天下人たる男の器量か。
俺はその姿を胸に焼き付けつつ、心の中で決意を新たにした。織田信長という偉大な人物に恥じぬよう、伊達家を率いてゆこうと。
奥州の海は、今夜も静かに輝いていた。