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『若獅子の爪』

新たな名――政宗を賜ったその余韻が、まだ俺の胸中で深く静かに波打っていた。米沢城での挨拶を終え、俺は心を整えつつ、中村城への帰途の支度をしていた。


衣裳箱に荷物を詰め終え、小姓に持たせようとしたそのとき、部屋の外に微かな足音がした。


「若殿、義姫様よりお呼び出しがございます」


静かな口調ではあったが、どこか俺に気遣うような緊張感が滲んでいる。母・義姫が俺を個別に呼び出す時、それは大抵ろくでもない話であることが多い。


俺は小さく息を吐き出し、気を引き締める。


「わかった。すぐに向かう」


廊下を渡り、母の待つ書院へ向かう。障子越しに、母の冷静で凛とした声が響いていた。俺は静かに障子を開け、ゆっくりと中へ入った。


「お呼びでしょうか、母上」


俺が丁寧に頭を下げると、母・義姫の横には弟の竺丸が控え、さらにその傍らには叔父の国分政重が腕を組んで座っていた。すでに空気は張り詰め、どことなく不穏な雰囲気が満ちている。


義姫は俺の顔を見据えると、静かな、それでいてどこか挑発的な口調で口火を切った。


「藤次郎、いや政宗。あなたには少しばかり早すぎるのです。まだ若輩なのですから、中村城のことは大殿――あなたの父上にお返しなさい」


母の言葉は穏やかに聞こえたが、その裏にある皮肉が刃のように俺を刺す。


「先の戦いで大敗を免れたのは、田村家の偶然の援軍があったから。あなたの采配で守れたわけではありません」


その言葉に、横に座る叔父の政重も追従した。


「左様でございます、若殿。若気の至りで戦を仕掛け、運よく敵が退いたから良かったものの、次も同じようにいくとは限りませぬぞ」


二人が次々と言葉を浴びせる中、俺は心の内で静かに息を吐き、視線をゆっくりと叔父の政重に向けた。


「なるほど、叔父上のご指摘はもっとも。確かにまだ未熟ゆえ、学ばねばなりません」


その言葉に、叔父は満足げに頷きかけた。しかし俺は続けた。


「ところで叔父上は、国分家に養子として入られて何年になられますか?」


突然の問いに政重は動きを止め、少しばかり眉をひそめた。


「……もう随分となるが、それが何か?」


「それだけ長くおられるのに、国分家は依然として家中をまとめきれていないようにお見受けします。随分とご苦労なされているようですね」


その一言に政重の表情がみるみる強張り、母・義姫の眼差しも鋭くなった。


「政宗、叔父上に向かってなんという口の利き方ですか!」


母の声が一段と鋭さを増すが、俺は視線を逸らさず、毅然と続けた。


「叔父上もまた、ひとつの家を預かる難しさはご存知のはず。ならば、私が今伊達家南の門戸を預かることが如何に容易ならざることか、お察しいただけるのではありませんか」


俺の言葉に叔父は顔色を赤くしつつも、それ以上返す言葉を失ったように口を結んだ。


「私は確かに未熟です。しかし、その未熟な私が家臣を動かし、戦いを切り抜けてきたことも事実。偶然も運も、全ては策と準備あってのこと。叔父上も家臣の統率が難しいのはご承知でしょう?」


「ぐっ……」


叔父は言葉を飲み込み、母も静かに黙り込んだ。


その沈黙の中、傍らに控えていた弟・竺丸が小さく息を呑む音が聞こえた。視線を向けると、彼の瞳には俺への畏敬の念が光っていた。


竺丸の目を見て、俺は胸の奥が暖かくなるのを感じた。弟が、俺をひとりの当主として認めている。その眼差しが、俺にさらなる力を与えてくれた。


「母上、叔父上。私は決して慢心しているわけではありません。ただ、与えられた務めを果たそうとしているだけです。これが政宗の役目です。今後も、家中の皆が安心して暮らせるよう、誠心誠意努めてまいります」


義姫の眉が僅かに動き、微かなため息が漏れた。


「……口の減らない子ですね。政宗と名を変えた途端に、こうも強気になるとは」


それ以上は言葉を返さず、母は視線を逸らした。俺は静かに頭を下げ、その場を立った。


「失礼いたします」


廊下を出て自室に戻る途中、小さな足音が追いかけてくる。竺丸だった。


「兄上!」


振り返ると、弟の瞳は興奮で輝いていた。


「兄上、すごかったです。母上や叔父上と、あのように堂々と言葉を交わせるなんて……僕も兄上のようになりたいです」


その言葉に俺は静かに微笑んだ。


「竺丸、おぬしもいずれは伊達家を背負う一人。よく見て、よく学べ。そして俺を超えていけ」


竺丸は力強く頷いた。俺はその背をそっと押し、再び歩み出す。


政宗の名を背負い、生きていく。その重さと、決して引いてはならぬ時があることを改めて胸に刻んだ。


凍てつく米沢の空は、いつしか青く高く澄み渡っていた。

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