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『名を与えられる日』

雪解けにはまだ遠い、凍てつく山風が米沢の城下を包んでいた。


空はどこまでも白く、吐く息さえも硬く凍りつくような朝――それでも正月とあって、城下には晴れ着姿の町人が行き交い、門前には年始の登城を告げる太鼓が静かに鳴り響いていた。


俺は裃に身を包み、父・伊達輝宗の居する米沢城へ、年賀の挨拶に向かっていた。


背筋は自然と伸びる。呼吸も心なしか深くなる。


先の戦、磐城の四倉での苦戦と、そこからの引き分け。あれを戦と呼ぶには早すぎ、勝ちとは呼びがたく、それでも敗れずに帰還できたことは誇るべきことだった。


だが俺は知っていた。


俺自身の戦ではない。出陣もしていない。


黒脛巾組の報、使者の采配、援軍の手配、策と命令で戦を動かしたとはいえ、俺はまだ“少年”だ。


その未熟さを痛感する日々の中で、今日という正月を迎えていた。


城門をくぐり、白砂の庭を歩む。小姓に導かれて広間へ入ると、正月の装いに身を包んだ重臣たちが座を占めていた。


その中央、上座に父・伊達輝宗。隣には母・義姫が座していた。


あの母がいるとなれば――覚悟が要る。


俺が深々と頭を下げると、輝宗は穏やかな声で迎えてくれた。


「よう参ったな、藤次郎。先の戦ではよく働いてくれた」


その言葉に、周囲の家臣たちの視線がちらりとこちらに向けられた。無言のまま、それでも重みのある眼差し。彼らもまた、あの戦の終末を見届けていたのだ。


そして、やはり義姫が動く。


「家臣を止めることもできず、勝手に戦を始めるような男を抱える十歳の子供に、城を任せるなど……やはり早すぎましたね、大殿」


その声音は柔らかく、それでいて鋭利な刃物のようだった。義姫は視線を俺に向けることなく、正面の輝宗だけを見据えていた。


「兵は勝手に動き、敵は倍。無事だったのは、ただ運が良かっただけ。子供の采配など、そんなものです」


部屋の空気が一瞬で冷え込んだように思えた。


俺は一言も返さなかった。返せなかった。何も言わず、ただ膝を折り、頭を下げた。


だが、次に口を開いたのは、父だった。


「左様ではない。藤次郎の判断は的確だった」


その言葉に、義姫の眉がわずかに動いた。


「数で劣り、攻めきれず、敵は援軍を得ていた。あの状況で我が軍は全滅もあり得た。だが藤次郎は、左月を動かし、基信を走らせ、田村を呼び寄せ、敗北を防いだ」


輝宗は静かに立ち上がり、広間の中央へと歩み出た。


そして、俺の正面に立ち、穏やかに言った。


「ここに元服を許す」


――一瞬、時が止まった。


「藤次郎、汝の働き、すでに一国の主たる器に見える。よって、これより名を『政宗』と改めよ。伊達藤次郎政宗――伊達家の嫡たる名、汝に与える」


頭上から響くその声に、血の気が引くと同時に、全身が熱を帯びた。


政宗――。


伊達家中興の祖の名。伊達家にとって特別な意味を持つ名。

俺が心のどこかで、まだ遠いと思っていた名。


思わず、顔を上げてしまった。目の前に立つ父の顔は、柔らかくも決して揺らがない信頼に満ちていた。


「……父上」


「汝はすでに“見ている”。軍の動き、敵の狙い、そして味方の限界。それが見えている者に、名を渡さずして何を望もうか」


「……ありがたき……」


嗚咽が喉まで来そうだった。だが、堪えた。ここで涙をこぼすことは、義姫の言葉を証明するようなものだ。


俺は深く、深く頭を垂れた。


「政宗、此度の事、何よりも民を失わず、家を守りきった。その覚悟と知略を、我らは見ておる」


父の声が、俺の中の幼さを少しずつ剥がしていった。


そして、ふと義姫の方を見ると、彼女はわずかに目を伏せていた。


顔を上げたそのとき、義姫と目が合った。


その瞳の奥にあったのは、意外にも――


ほんの僅かだが、誇らしげな、静かな揺らぎ。


「政宗として、務めを果たせ」


輝宗が最後にそう言ったとき、周囲の家臣たちは一斉に頭を下げた。


俺の胸の内で、なにかが音を立てて変わっていく。


もう“藤次郎”ではない。


今日より俺は――


「伊達藤次郎政宗」


この名を掲げて、生きていくのだ。守り、導き、戦い、時に耐え抜いて。


そして、天下へと歩んでいく。


白く霞んだ米沢の空が、少しだけ高く感じられた。

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