『三方ヶ原の向こう側──祖父と父と、歴史オタクの正月挨拶』
正月明けの晴れた朝。
俺は、父・輝宗に連れられて信夫郡・杉目城にやってきた。
伊達家の元・当主、そして今の父の“上司”にして――
俺の祖父、伊達晴宗殿に年始の挨拶である。
「……お久しゅうございます、父上。御身いかがでございましょう」
「……まぁまぁじゃ。そなたこそ、よう風邪などもひかずにおる」
輝宗が襟元を正し、晴宗は杖をつきながら厳かに応じた。
二人の間に漂う空気は、親子というより、何かもっとこう……政治の香りがする。
俺もすかさず、例の“5歳モード”で正座してぺこりと頭を下げた。
「おじいさま、ことしも、どうぞよろしくおねがいもうしあげます」
晴宗の眉がぴくりと動いた。
「おぉ……これはまた利発な。顔つきもすっかり“次代の顔”になったのう」
その“次代”という言葉に、父と祖父、互いに一瞬だけ視線を交わす。
(……うわぁ、この空気、なんか怖いな。いや、政治の現場ってこういうもんだ)
晴宗は炭をついと押さえながら、ゆっくりと告げた。
「くれぐれも足利将軍家への付け届けは怠るでないぞ。
京は遠かれど、信義は心にこそある」
(……おっと、晴宗公はまだ“室町将軍家”に希望を抱いてるのか)
父・輝宗は苦い笑みを浮かべて応じた。
「父上のお気持ちはよく分かりまする。
……ですが、今や実を成すのは将軍家にあらず」
「ふん……では、何だというのじゃ」
「織田信長こそ、現下の上策。今は、あれを頼むが筋道と存じます」
「信長……? あの、尾張の若造がか?」
「もはや尾張の若造ではありますまい。足利義昭公を京に据え、幕府の実権も――」
ここで、俺は黙っていればよかった。
でも。
(ああ……言いたい。言っちゃいけないけど言いたい)
……口が、勝手に動いた。
「たしか……この年、つまり元亀三年……武田信玄が動いて、織田・徳川連合と三方ヶ原で……」
「……!?」
「織田徳川は……まぁ、敗れるんですけど、でも……いや、でも、信玄はその後……」
その場が、一瞬で凍った。
(……しまったぁぁぁああ!!)
俺は慌てて口を閉じた。
輝宗が、目だけで問いかけてくる。
『お前……何を言った?』
晴宗が、胡坐のまま首を傾ける。
「ほぅ……梵天丸。そちは、その“三方ヶ原”とやらを知っておるのか?」
「……えっ、えっと……まんがで、よみました……」
「まんが?」
「……え、えと……小十郎に、かいてもらった……おはなしで……」
(頼む、小十郎、後で辻褄あわせて……!!)
輝宗が咳払いした。
「……梵天丸は病の折に、よう物語を読ませておりましたのでな。
なにかと想像の翼が、広がるようで……」
(父上ぉぉぉ!! ありがてぇぇぇぇ!!)
晴宗はひとしきり俺の顔を見た後、ふっと笑って、
「面白い童じゃの。まるで、未来を知っておるかのようじゃ」
(まさにそれなんです……お祖父様)
「じゃが、信玄が動く、か……ほう」
晴宗は、遠くを見るように語った。
「信玄が東より動けば、我ら奥州にも影が及ぶ……。
いずれ、“見えぬ戦”が、この地にも流れてくるかもしれぬのう」
「……父上、それゆえにこそ、織田の動向に目を向けるべきと存じます」
晴宗は再び炭をつまみ、火箸を揃えるように、静かに言った。
「まぁよい。いずれ、時の流れが答えを出すじゃろう」
(その通りです……お祖父様。時代は、織田の時代へと移りゆく)
……だが、この時代の人々には、まだその未来が見えていない。
俺ひとりだけが知る“この先の日本史”。
それが、時に“口から漏れる”ことの恐ろしさを、この日、痛感した。
──以後しばらく、俺は喜多に“発言監視”されることになる。