『傷を癒し、刃を研ぐ時』
凛と張り詰めた朝の空気が、中村城の書院に静かに流れている。筆を走らせる俺の手は慎重で、紙の上の一文字一文字に、感謝と敬意、そして新たな戦略への布石を刻んでいた。
宛先は三春、田村清顕。
「この度のご助勢、誠に感謝に堪えません――」
指先に籠めたその言葉は、俺の本心だった。あの一報がなければ、鬼庭左月も遠藤基信も、そして我が伊達軍も、四倉の地で血に塗れた敗北を喫していたかもしれない。田村家の出陣は、たしかに“引き分け”という形を我らに与えてくれた。
「……いや、違うな。“敗北を防いだ勝利”か」
そんなふうに独りごちながら、筆を置こうとしたその時、廊下から騒がしい足音が聞こえてきた。
「若殿! 左月殿と遠藤殿、ただいま御城へ!」
俺はすぐに立ち上がった。胸に去来するのは、懐かしさと、少しの緊張だ。勝利でも敗北でもない、あの苛烈な戦場から帰ってきた彼らに、俺はどんな顔で向き合えばよいのか。
やがて城の庭に姿を現した二人の男に、思わず息を飲んだ。
鬼庭左月――その豪胆不敵な男の頭が、見事なまでに剃られていた。
「……なんだその頭は」
「はっ。若殿、申し訳ありませぬ」
左月は地に膝をつき、深く頭を垂れた。
「この左月、若殿の命に背き、戦を挑んだあげく、引き分けに持ち込むのがやっとでござった……その罪、骨に染み入っておりまする」
剃り上げた頭が霜に濡れ、寒さに震えているのが痛々しい。それでも、その姿には男の矜持と、誠の謝意がにじみ出ていた。
そして隣に控える遠藤基信は、右腕に包帯を巻き、表情にはかすかな疲れの色を浮かべながらも、静かに頭を下げた。
「左月殿を止められず、また拙者も守りきれぬ場面がありました。お叱り、いかようにも……」
俺は二人の姿をじっと見据え、しばし沈黙した。だが、その沈黙は、責めるための間ではなかった。
「……よく、戻ってきてくれたな」
そう口にした瞬間、二人の肩がぴくりと震えた。
「左月。おぬしの突撃は、たしかに早計だった。だが、それでも結果は引き分けだ。田村家の出陣を呼び込んだのも、そもそもおぬしの行動あってのこと。死なずに戻った、それが何よりだ」
俺がそう言うと、左月は小さく嗚咽を漏らした。
「小高に戻れ。城を守れ。もう無茶はするな。守りの鬼であれ。それが今の戦だ」
「は、はは……御意……御意にございます!」
泥のように深く頭を下げる左月の背中に、俺は静かに視線を注いだ。
「そして、基信。おぬしには湯に入ってもらう。飯坂へ行け。湯治だ」
「湯……湯治でございますか?」
「傷を癒さぬまま戦に出られても、俺は使いようがない。休め。今は“動かぬこと”が最善の策だ」
基信は唇を引き結び、ようやく静かに頷いた。
「……承知仕りました。しばし、骨を温めさせていただきます」
「その言い方がすでに骨の冷えきった男だな。せめて湯に浮かんで、笑ってみろ」
少しだけ口角を緩めた基信に、俺は満足げに頷いた。
その後、俺はすぐさま次の指令を下した。呼び出したのは、鬼庭右衛門――あの豪傑左月の嫡男でありながら、冷静と胆力を併せ持つ希有な若者だ。
「右衛門。おぬしに新たな任を与える。夜ノ森に砦を築け。佐竹・岩城の動きに備える“目”だ。動き次第ではすぐさま殴り込める牙にもなる」
右衛門は無言で深く頭を下げた。
「砦は小さくとも良い。見晴らしを優先せよ。隠すのではない。堂々と見せて、睨みつける。佐竹と岩城に“伊達はまだ睨んでいる”と知らしめろ」
「御意」
「……それとな、父上のようにいきなり突撃はするな。俺の心臓がもたん」
右衛門の口元が一瞬だけ緩み、しかしすぐに引き締まった顔で深く頷いた。
「若殿の心臓を守るためにも、動きます」
頼もしさに胸が熱くなる。この青年が、伊達の未来を支えていくのだ。
夜、筆を取り、再び令状の続きを書く。田村家への礼状の傍らに、新たな布陣図を描きながら、俺はまた一歩、未来を見据える。
伊達家は、まだ若い。だが、こうして一人一人が命をかけて、背中を預けてくれる。
それに応えるためにも、俺は歩みを止められない。
戦が終わったわけではない。だが――
「少しだけ、火は静まったな。今は、刃を研ぐ時だ」
灯火の揺らめきの中、俺は静かにそう呟いた。




