『進軍止まず、矜持は折れず』
冷たい風が中村城の屋根を鳴らしている。冬が深まるこの季節、吹きすさぶ風の音は、まるで戦の足音のように耳を刺す。
俺は城の一角、簡素な書院にて膝を抱えるように座っていた。目の前には黒脛巾組からの報告書。薄く墨のにじんだ文字に、ただならぬ気配が漂っている。
「鬼庭左月、平城を囲むも岩城常隆、城に籠もる」
──攻めあぐねている。
あの鬼庭左月が、真正面からぶつかる以外の戦を強いられている。その光景が目に浮かび、胸がざわつく。ましてや平城は山でもなければ堅城でもない。常隆は戦場に出ることすらせず、門を閉ざして沈黙を貫いている。
「……煮え切らぬ岩城め。左月も、さぞ苛立っていることだろうな」
そして、次なる報せは俺の心臓を一気に冷やす内容だった。
「佐竹義重、五千の兵を北上。援軍として平城へ向かう」
一瞬、呼吸が止まるような感覚に襲われた。五千――鬼庭左月の手勢では到底受けきれぬ。いや、左月がどれだけ武勇に優れていようとも、あれは“城攻め”の陣形を組んでいる状態だ。背後を突かれれば、ひとたまりもない。
「……このままでは、討ち取られる」
拳を固く握った。
俺が行きたい。今すぐ駆け出して、左月の横に立ちたい。だが、俺はまだ若輩。名ばかりの御曹司に過ぎぬ俺が出陣すれば、敵に「伊達家の当主は軽い」と嘲られるだけだ。
「俺が、もっと齢を重ねていれば……!」
悔しさに歯を食いしばり、机を叩く。
そして、俺はひとつの決断を下した。直接行けないのならば、言葉で動かすしかない。
呼び出したのは、伊佐。
「おぬしを左月の元へ使者として送る。命令を伝えよ。──撤退せよ、と」
「はっ……ですが、鬼庭殿は、撤退など……」
「それでも行け。父の命として伝えよ。“鬼庭左月の命を惜しむ”のだと」
俺は心を鬼にして言い切った。伊佐は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んで深く頷いた。
「命、しかと預かりました」
馬を駆って伊佐が城を出ていったその数刻後、さらなる報が届いた。
「鬼庭左月、撤退命令を拒絶。なおも陣を解かず」
俺は無意識に立ち上がっていた。
「……頑固な鬼め……!」
だが、それでも嫌いになれない。自分の首が飛ぶと分かっていても、部下を率いて前に立つ男。ああ、なんというか──たまらなく、憎めない。
「小十郎! 遠藤基信を呼べ!」
すぐさま片倉小十郎が走り、基信が駆けつけてきた。米沢から来ていた兵が、俺の指示を待って控えていたのだ。
「基信。貴様に任せる。左月のもとへ向かえ。五千の佐竹勢を迎え撃ち、必要とあらば、左月を抱えてでも退かせろ」
遠藤基信は目を見開いたが、すぐに深く頷いた。
「承知仕った。たとえ左月殿が斬りかかってこようと、拙者が止めまする」
「無論だ。あの鬼を死なせてはならぬ。あの男は、まだ未来の伊達にとって必要な男だ」
基信は躊躇なく踵を返し、陣を整え始めた。雪混じりの風が吹き込む中、俺は静かに祈るように空を見上げる。
鬼庭左月。己の意志を貫き通す、不器用で真っ直ぐな男。
伊佐。冷静沈着に命を伝える、静かなる忠義者。
遠藤基信。知勇を兼ね備えた、我が軍の柱。
そして、俺。
「俺が何もできぬことを、悔やんでいると思うなよ。俺は……伊達を動かしてみせる」
いま、この手で直接剣を振るうことはできない。だが、俺には指令を出すことができる。戦局を俯瞰し、人を使い、時を動かすことができる。
ならば俺は、すべての手札を正しく動かす。
「左月、どうか、無事であれ。あとは基信に任せる」
中村城の廊下に、重く冷たい風が吹き抜けた。
その風の先、南の地で火の粉が舞っている。鬼が叫び、使者が走り、軍が動く。
戦が始まる。
だがこの戦、絶対に“命を繋ぐ戦”にせねばならない。
この手で、必ず繋げてみせる。