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『静矢、影より飛ぶ』

鬼庭左月が、独断で岩城討伐に打って出たという報告が届いてから、俺の胸は不安で張り裂けそうだった。


あの男の武勇を疑うわけではない。いや、むしろ信頼している。真正面からぶつかってこそ光るのが鬼庭左月という武人だ。だが、相手はただの磐城ではない。佐竹との盟約を得た岩城常隆、その背後には上杉・蘆名の影すらちらつく。南方の風は、ただの戦の匂いではない。


「……まずいな、左月。おぬし、戦場でひとり相撲をとっておらぬか……」


俺は苛立ちを押し殺しながら、硯に墨をすり、すぐさま命を下すための書状をしたためた。


「右衛門を呼べ」


命じてから間もなく、鋭い足音とともに、まだ若さを残した鋭い眼差しの男が俺の前に現れた。鬼庭右衛門、左月の嫡男であり、父に似て気骨のある若者だ。


「若殿、右衛門、参上仕りました」


「来てくれて助かった。すぐに出陣だ。左月のもとへ向かってくれ。足軽三百の他、黒脛巾組から十名をつける。装備は静矢――黒装束で、名も家紋も隠せ。左月が岩城常隆を討ってくれたらそれでいい。だが、討たれるような事態には絶対にさせるな」


右衛門の表情が一瞬だけ強張る。


「父を、止めるのですか」


「違う。命を拾わせるのだ」


その一言で右衛門の目が確かに変わった。恐れではなく、腹の底から燃え上がる炎のようなものが、彼の中に宿るのが見て取れた。


「……承知。父を、死なせはしません」


「頼んだ。おぬしには、父より広く時代を見渡してもらわねばならん」


黒脛巾組の小隊長を呼び、すでに整えてあった装束と武装を受け渡す。彼らの背には矢筒、腰には短剣、手には静矢と呼ぶ連弩。軽装ながら暗殺、攪乱、伝令、護衛すべてをこなす“静矢”部隊。


右衛門が彼らを率いて小高城を目指すとき、その背は、父親を討ち取らせぬという一途な執念に貫かれていた。


そして俺は、次に書状を認めた。


宛先は、米沢。父・伊達輝宗だ。


『父上、左月が独断で岩城に討ち入りました。既に我が方から援軍を差し向けておりますが、敵は佐竹と手を結び、動きは不穏にございます。


どうかお力をお貸しくださいますようお願い申し上げます。小高と富岡の間、南下する路を塞ぐよう、騎馬数十をお送りいただければ幸甚に存じます。


この地の動乱は、やがて奥州全体に波及いたします。いま手を結ばねば、後悔は未来に残ります』


使者には早馬を用意させ、最短で米沢へ走らせた。


しかし、どうしても気がかりな点があった。


本来ならば、南方の門番として絶好の位置にいる大内定綱を動かしたいところだった。が、その矢先、黒脛巾組からもう一つの報せが届く。


「蘆名家、怪しい動きあり」


簡素な文でありながら、その筆致は不吉を孕んでいた。


報告によれば、黒脛巾組の潜入員が蘆名盛氏の家臣たちの間で不審な動きを察知したという。軍備の再編成、倉の物資移動、国境付近への兵の移動。それらが、明確に“伊達家の南進に呼応する”ように進んでいた。


「……動いてきたな、蘆名。しかも、左月が動いた瞬間に合わせてきたか」


俺は地図を睨みながら考える。定綱を動かせば、蘆名が動く。定綱が睨みを利かせている限り、蘆名は動きづらい。だが、もしその警戒が外れれば、すぐさま国境を超えてくる可能性がある。


「定綱は、動かせないな」


俺は低く呟き、決断する。


「小十郎。定綱にはこのように伝えてくれ。『蘆名、南で蠢く。決して国境から目を離すな。睨んで、止めろ。それでいい』と」


片倉小十郎は頷いた。彼も理解している。全てを動かすわけにはいかない。誰かが“動かずに睨む”役を担わねばならないことを。


その夜、俺は寝所に戻らず、執務机に向かったまま蝋燭の明かりで地図を睨み続けた。鬼庭左月の突撃、右衛門の追従、蘆名の蠢動。そこに佐竹・岩城の連携が重なり合い、南奥州はまるで蠱毒の壺のように煮えたぎり始めている。


「これは、ただの一合戦ではない……」


この戦、勝てば伊達の南門は開かれる。だが負ければ、その門を蹴破られる。


「左月、右衛門……どうか無事で戻ってこい。勝っても、死ぬな」


俺は拳を握った。寒空の夜、誰もいない部屋の中で、胸の奥だけが静かに、しかし確かに熱を帯びていた。

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