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『影の矢、歴史を穿つ』

天正三年(1575年)六月――。俺は部屋の障子を半ば開け放ち、曇りがちな夏空をじっと睨んでいた。季節の湿気がじんわりと肌にまとわりつき、じっとしていても汗が滲む。額に浮いたそれを拭いながら、俺は深く息を吐いた。


「いよいよ、長篠か……」


俺の中には、常に胸を締め付けるような焦燥感があった。未来を知っているが故の、このやりきれない感覚だ。何もしなければ、この戦いで織田・徳川連合軍は武田勝頼率いる騎馬隊を火縄銃の威力で撃破し、歴史にその名を刻む。だが、伊達家として、この合戦に『無関係』のままで良いわけがない。


俺は自らの膝元に控えている黒脛巾組の頭領を静かに呼び寄せ、低い声で命じた。


「長篠の合戦に、伊達の名を刻んで来い。織田家への助勢という事実を作るのだ。黒脛巾組より二十名、陣羽織には伊達家の家紋を明確に示せ。だが、決して騒がず、ひそかに矢を射掛けよ。隊は前田利家の隊に合わせるのがよかろう」


頭領は瞬時に理解を示し、片膝をついて深く頭を垂れた。


「承知いたしました。我ら影の矢となりて、伊達の名を穿って参ります」


黒脛巾組は伊達家が秘蔵する忍び衆であり、任務遂行の腕は折り紙付きだ。彼らならば、歴史の影にひそやかな足跡を残すことが可能だろう。


数日後――。


黒脛巾組は風のように去り、俺はその帰りを屋敷の一室で待っていた。静かな風が障子を揺らし、俺の心も揺れる。成功するはずだと分かっていても、心臓は否応なく高鳴った。俺の命じた行動が果たして歴史にどれほどの影響を及ぼすのか。その僅かな可能性が俺の胸をざわつかせた。


それからまた幾日か過ぎたある夜、月明かりの淡い輝きが庭の木々を照らしている頃、黒脛巾組が帰還したとの報告が届いた。俺は足早に表に出る。忍びたちは音もなく現れ、静かな動きで隊列を整えると、一様に俺の前で膝をついた。


頭領が恭しく巻物を掲げ、俺の前に差し出した。


「殿、無事に使命を果たして参りました。織田信長公より直々に感状を賜っております」


巻物を開くと、そこには信長の豪快かつ特徴的な書体で、『伊達家の助力、見事也』としたためられていた。俺の中でほっと安堵の息が漏れ、緊張が一気に解ける。


「よくやってくれた。誰にも気づかれぬよう巧妙にやったのだな」


頭領は微笑を浮かべ、静かに頷いた。


「我らが射た矢は静矢。誰にも気づかれず、織田家の兵が射たかのごとくに見えました。それ故、前田利家隊にも不審がられることはありませんでした」


俺は巻物を再び巻き直し、心の中で深く頷いた。この巻物こそが、やがて伊達家の命運を左右するかもしれない大切な布石なのだ。


「これで、伊達家は織田の覇業にわずかながら関与した事実を作った。いずれこれが我々の進むべき道を切り開く礎となるだろう」


俺の言葉に、黒脛巾組の者たちは無言で深々と頭を下げた。


彼らが去った後、俺は再び一人縁側に座り、月を眺めていた。光は柔らかく、闇夜を薄く払っていく。俺はこの瞬間に感じる心地よい孤独と満足感をゆっくりと噛み締めていた。


『影は光と共に在り、光は影を生む――』


俺が未来からこの時代に転じて以来、幾度となく抱いてきたその言葉を、俺は小さく口ずさんだ。歴史という巨大な流れに、わずか一本の矢を放つこと。その微細な波紋は、やがてはるかな未来にまで伝播するだろう。


夏の風が頬を撫でる。その涼しさが心地よく、俺は目を閉じ、未来への静かな決意を新たにした。


この一手が、やがて必ず報われることを信じて――。

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