『風薫る許嫁──愛姫との縁、結ばるる』
風が、やさしく吹いていた。
中村の初夏は、思いのほか涼やかで、城を包む山の稜線にはまだわずかに雪が残っている。吹き抜ける風がそれを運んできたのか、朝露に濡れた障子越しの光には、どこか淡い白さが混じっていた。
そんな朝だった。
「殿、米沢の御屋形様より直筆のお手紙が」
小姓の佐藤貞則が、いつになく丁重な手つきで文を差し出してきた。
俺──伊達藤次郎は、その文に目を落としながら、内心ざわついていた。
父・輝宗が、中村を訪れてからおよそ一月。
表向きには「巡察」としての訪問であったが、その実、あの夜に交わした言葉──「儂はお主の家臣となろう」──がすべてを変えた。
以後、家中では密かにではあるが、「藤次郎様の御命は即ち伊達家の方針」として扱われるようになった。文言上は“御内意”という表現が多く使われるが、実質、俺のひと言が政に大きく影響を及ぼす。
……八歳の子どもだぞ? と思う気持ちもあったが、やるしかなかった。
そして今日届いたこの手紙。
父からの文面を、ひと文字ずつゆっくり追っていく。
『藤次郎殿
三春城の田村清顕殿より使者あり。
その内容、誠に驚くべきものであった。
曰く、田村殿の嫡女・愛姫を、藤次郎の許嫁に望むと。
これを我ら伊達家としていかが取り計らうべきか。
お主の御心に従い、我は動く。
返文を乞う。
輝宗拝』
「…………」
しばらく、言葉が出なかった。
心の中に、何かが波紋のように広がっていた。
──愛姫。
歴史の記憶が、ふと蘇る。
かつての時代において、伊達政宗公の正室として知られた女性。女ながらに聡明で、しかも忍耐強く、伊達家が存続するために大きな力となった。ときに夫の剛胆さを抑え、ときに家中の対立を調停し、裏から政宗を支え続けた名婦人である。
そう、知っている。俺は知っているのだ。
──彼女は、必ず必要になる。
……だが、今はまだ。
「愛姫さまは、たしか……生まれて、まだ五六年くらいしか経っていないはず」
つぶやいた声に、片倉小十郎が眉を上げた。
「されど、田村殿の文通は誠意あるものとのこと。幼子ゆえにこそ、早くから縁を結んでおきたいのかと」
「……それはわかる。むしろ、ありがたい申し出。田村殿は今までわれらに助成下された。舅殿になられることに不満もなし」
「さようですな」
うなずきながら、俺の胸の奥はじんわりと熱かった。
たとえまだ幼くても、愛姫は未来を左右する大切な“支え”だ。
血筋の結びだけではない。あの人は、たしかに──
「書状をしたためます。小次郎書き終えたら父上様に間違いないよう届けてくれ」
「はっ」
俺は筆を取り、慎重に墨を含ませながら、文をつむいでいった。
『父上へ
このたびの御手紙、拝読いたしました。
田村清顕殿よりの御申し出、まことに栄誉に存じます。
然れど、愛姫様は未だ幼少にしておられる由、今すぐの輿入れは恐れ多く候。
つきましては、愛姫様が十三参りを迎えられるころ、改めてご縁を固めたく存じます。
それまでの間、許嫁としてご縁をお結びくださいますよう、何卒お願い申し上げ候。
藤次郎 拝』
文を結びながら、俺はそっと筆を置いた。
誰もいない部屋に、風が吹き込んでくる。
薄紅の花びらが、どこからか一枚、ふわりと畳に落ちた。
まるで、祝言の化粧花のようだった。
「……愛姫様か」
まだ会ったこともない少女の名を、俺はひとり口にする。
この時代に転じて、何より不安だったのは、誰も“未来”を知らないということだ。いつどこで誰が死に、どの戦が起こり、どんな陰謀が動くか。
けれど、この愛姫という存在だけは──希望として、俺の中に根を張っている。
まだ名も顔も知らぬ彼女に、俺はすでに、伊達家を共に守る者としての敬意を抱いていた。
許嫁。
……なんだか、くすぐったい言葉だ。
だが、やるべきことは決まっている。
いずれ、彼女が輿入れしてくるその日まで、俺は──しっかりとこの家を守り、築き上げていかなければならない。
彼女の居場所を、用意するために。
未来の妻としてではない。
未来の“戦友”として──